2016

2016/12/30

凧、蛸、たこ

加古は幼少期、現在の福井県越前市武生(たけふ)の地で身近な小さな自然の中、思う存分遊んだそうです。小川での小魚すくいや虫捕り。中でもトンボに魅せられ、やがて空を飛ぶものに興味をもつようになりました。凧あげは紙飛行機と並び小学校にあがってからもとことん追求した遊びです。

科学絵本「たこ」(1975年福音館)は「かがくのとも70号」として1月に発刊され、その後単行本としても出版されていました。この本は、凧の原理を風に舞う木の葉を例に説明し、凧を作るにはハガキ、画用紙、段ボールなどでも良く、ポリ袋を使っての作り方・揚げ方のコツを伝授しています。しかも型紙には蛸の絵まで描いて(下の写真)、かこ流の遊び心とともに画面のだるまちゃんだこ、かみなりちゃんだこ、うさぎちゃんだこは空高くまであがって行きます。

「さわやかな たのしいあそび」(1971年童心社、2013年復刊ドットコム) には、「たこ」というのは関東地方の呼び方で、関西では「いか」と呼ぶとあり、〈でんぽう〉や〈ひらき〉〈ちょうしっぽ〉などの仕掛けについても解説しています。冬の遊びと凧揚げは切っても切れないもので、この本の表紙にも、「子どもの行事 しぜんと生活 12がつのまき」(小峰書店)の表紙にも描かれていますし、「あそびずかん ふゆのまき」 (2014年小峰書店)では、小さいお子さんでも作れてとてもよくあがる、いろがみだこの作りかたを分かり易く図解しています。

下は、「かこさとしあそびずかん ふゆのまき」(2014年小峰書店)の表紙と前見開きです。

海にすむ生き物のタコも絵本には描かれています。「海」(1969年福音館)にはもちろんのこと、「ほねは おれますくだけます」(1977年童心社)では軟体動物の例として大きく描かれています。下の写真をご覧ください。

一方、「かいぞくがぼがぼまる」(復刊ドットコム)の前扉のユーモラスなタコ(下の写真)は、これから海上で始まる壮絶な展開とは対照的な、海中の静けさ、のどかな雰囲気をなんとも上手く醸し出しています。

「ことばのべんきょう②くまちゃんのいちねん」(1971年福音館)では、海の場面に登場するだけでなく表紙のくまちゃんが持っているのがタコです。(上の写真)

発売されたばかりの「だるまちゃんすごろく」(2016年福音館)の表紙でも、下の写真にあるように、だるまちゃんはタコを手にしていますし、青で縁取られている〈おくにめぐりすごろく〉の25みえ(三重県)には、いせのねりものとしておがくずを固めてつくる郷土玩具のタコが描いてあります。このおもちゃは数十年前にはよくあったそうで、「ことばのべんきょう」(1971年福音館)のおもちゃやさんの店先にもタコちゃんがいます。

絵描きあそびでもタコを描いていく多くのバリエーションがあったようです。「伝承あそび考1」(2008年小峰書店)第5章では、日本普遍生物〈タコ〉の調査、と題し全国の子どもたちが生み出し、伝承伝搬してきたものが記載されています。これらは1950年から1980年までに加古が収集した31673の資料を215種類に分類・考察した記録で20ページ余りにわたります。下は182〜183ページの一部です。

新刊「だるまちゃんと楽しむ 日本の子どものあそび読本」(2016年福音館書店)にも〈たこたこならび〉という、ゆげ絵遊びが紹介されています。

タコは多幸という当て字もあります。加古作品にでてくる〈たこ〉を見つけてにっこりしていただけたら嬉しく思います。どうぞ良い新年をお迎えください。

「かこさとしあそびの本 ④とってもすてきなあそび」(復刊ドットコム2013年)をご紹介します。この本の扉には次のようにあります。
(引用はじめ)
こどもたちは あそびます。
たのしくあそぶため さがしもとめ、
おもしろくあそぶため かんがえます。
これは、そのこどもの
ちえとくふうの あそびの本です。
(引用おわり)

遊びの遊びたる所以は、知恵と工夫がそこにあるからこそ楽しく面白いのではないかと思いあたる著者の言葉は深いものがあります。

ゆびあそび、科学あそび、手品に工作、縄の結び方や草履の作り方もありますし、わらべ歌も収録。5人以上のみんなで楽しむ「たこぼうずあそび」は道具もいらず是非楽しんでいただきたいあそびです。

(下は前見返しと前扉)

あとがきで著者は次のように書いています。
(引用はじめ)
子どもたちにとって、あそびはこのうえなく、楽しく、おもしろいものです。その楽しさを満喫し、もっとおもしろくするため、子どもたちはいろいろなことをやってのけます。あそび方をいろいろくふうします。あそびの道具をつくりだします。おもしろい現象をみつけだします。おかしな身体のしくみを発見することさえあるのです。

自発的にえられた、そうした考案や創造があそびの自由な場に搬出されると、子どもたちはその提案を試験し、実験し、その経験を整理し、検討します。

どんな金持ちの子がいいだしたことでも、どんな学術的に貴重なものであっても子どもたちは楽しいか、おもしろいか、という基準によって選択したり、淘汰したりして、そのきびしいふるいに残った「実力」のあるあそびだけが生き残り、伝達、伝播、伝承され、保存されていくのです。

私たちは、その子どもたちのあそびにおける創造や、くふうの過程を知れば知るほどその力におどろかずにはおられません。

学校や家庭の教育の場では、子どもたちの「自主性」がなかなか育ちにくいのに、あそびの世界では、なんとたやすく、やすやす子どもたちの自発的積極的な責任ある行動が、みごとに展開されていることでしょう。

それは何故でしょうか?その解答からあなたはもっと大きな教訓と具体的な手がかりを得ることになるでしょう。

しかもそれは、人間や人生にとって、重要な問題のかぎを示しているように思います。
(引用おわり)

1993年に農文協から出版された10冊シリーズ 「かこさとしのたべごと大発見」は全10巻の題名の最初の文字を拾うと「ごちそういただきます」となります。食育という言葉もなかった当時に発表されたこのシリーズは異色づくめです。その第1巻を例にご紹介しましょう。

第1に〈食べごと〉という言葉は、加古の造語です。

第2に、カバーに〈食べごと〉という言葉の説明、前見返しには加古による〈この本のねらい〉そして前扉には加古のメッセージがあり、本文の前にはさらに、この本に登場する皿田家7人と2匹の家族紹介を兼ねた〈食べごと〉の風景が描かれています。

後ろ見返しには、あとがきにあたる〈食事は未来への願い〉と題する文があり、なんと目次は後ろ見返しにある、といった構成です。どれほど加古の思いがこめられ語られている本であるかが、このような珍しい構成からも想像できます。

第3に、本文はというと、お料理の本かと思うほど美味しそうな食べ物と作り方が書かれ、その美味しさを紹介する文章もふるっています。

(表紙には、美味しそうな料理と皿田家のメンバーと思しき人形が写っていますが、この人形は紙粘土を使った加古の手作りです。)

第1巻は、日本人の主食お米についてで、米という漢字は八十八と分解できますが、それはお米をつくるのにそれほどの手数がかかっていることを、上の写真にあるように前見返しで図入りで説明しています。
次にある〈この本のねらい〉をご紹介します。

政治的なおコメを親しい食品に

(引用はじめ)
これまでともすると米食は欧米他国との対比で栄養やビタミンがどうの、低脂肪がダイエットに向くのと論ぜられてきました。また、コメは五穀最高品、貴族上流人の優良食物であったがために、財宝経済の尺度単位となり、次々と権力者により専断利用管理され、時に軍事物資となり、時に貿易摩擦の対象物となってきました。

このようにきわめて社会的政治的食物物資として、真の姿が曲解され続けてきたのがおコメです。この巻は、その米飯を純粋に、素直に見直し、この日本列島の風土にふさわしい食品として身近な親しい人間の食物としてゆったり楽しんでいただこうとしてできた本です。
(引用おわり)

さらに、本文の前には著者の以下のようなメッセージがあります。

この本でのあなたの発見!

(引用はじめ)
もしあなたが学校の先生なら、2-3ページの一升のコメ粒と人の一生の日数を確かめるため、生徒を煽動(?)して数えさせるでしょう。あなたがお母さんなら、14ページの創作どんぶり飯2つや3つをたちどころに思い出すでしょう。あなたが、お父さんなら、6、8ページのみそと、なっとう、30-31ページの甘酒とどぶろくのつくり方の奇妙な関連と誘惑に心引かれることでしょう。
そしてあなたが子どもなら、この本にのっていることぜんぶに、かたずををのみ、よだれをかみころして、きょうみをいだくでしょう。この本は、あなた心と体に役立つそんな、うんまい、おいしい発見があるでしょう。どうぞゆっくり召し上がってください。
(引用おわり)
(下は15ページの親子どん、鉄火どんの絵)

本文の最後には、〈ハレの日にも、ふつうの日にも〉というタイトルのもと、著者がこの本で言いたかったことをまとめ、あとがき〈食事は未来への願い〉へと続きます。

食事は未来への願い

(引用はじめ)
この本には私は次のような願いを込めました。
その1) 米飯時に主食と呼ばれる大きな食品の柱ですから、ただおいしいから食べ、あるから食べるのではなく、食物や食事に対する基本の姿勢、なんのために食べ、ない時はどうするか、なぜそんなにして生きるのかを、お説教や教訓話としてではなく、生活態度として貫いていただきたいということ。

その2) コメやご飯に関することは、教育や科学と同じように毎日の実践実行により、実物が提示され、その結果によって、正しさや良さを認めてゆくということ。

その3) 食事をするという事は、未来への期待、将来への希望を持っているということですから、実生活に起こる様々な悩み、苦しみ、なげき、グチ、苛立ち、怒り、悔しさ、恨みなどは、それ以外の時に解決を図り、食卓は心豊かな楽しい時間で過ごしたいこと。

この本により豊かなあなたの食卓にさらに新しい発見が添えられることを期待しています。
(引用おわり)

かこさとしは2016年春に90歳を迎え卒寿記念に私設ギャラリーで記者会見をいたしました。
当ウェブサイト開設前でしたのでお知らせできませんでしたが、NHKの朝のニュースや新聞各紙で、90歳でも現役、さまざまな作品を刊行することを報道していただきました。

記者会見には絵本館のある福井県越前市の奈良俊幸市長と「出発進行!トロッコ列車」出版のきっかけとなった小湊鉄道の石川晋平社長の両氏をお迎えし、ご挨拶をいただきました。

(左から小湊鉄道・石川晋平社長、奈良俊幸・越前市長とかこさとし)

2017年夏に整備がととのう越前市武生中央公園の監修をかこさとしがすることに関して、そのシンボルとなる壁画のデザイン等がお披露目されました。

小湊鉄道社長さんのよる「トロッコ列車」の歴史をまとめた貴重な映像と解説に参加者は興味をそそられました。(2016年11月、小湊鉄道の駅舎・橋梁・隧道など22か所が国の登録有形文化財として登録されることになりました。)

また、福音館書店、偕成社、小峰書店、復刊ドットコム、河出書房新社、文藝春秋社の各社の編集者さんより卒寿記念として出版されたばかりの本や2016-17年に刊行予定の本についての説明があり、最後にはだるまちゃん音頭の初披露で、一層和やかな会見となりました。

以下では、朝日新聞デジタルニュース(2016年3月31日)かこさとしさん、90歳新刊続々「もっと書きたい」の動画ニュースがご覧いただけます。

http://www.asahi.com/articles/ASJ303FL8J3ZUCVL029.html

上の写真は「あなたのおへそ」(1976年童心社)の前扉です。

発行以来長い間皆様に愛読いただいている「かこさとし からだの本」(童心社) 10冊シリーズの第1巻である本作は、現在でも、小さなお子さんたちの体への興味にお答えし、からだの大切さについて知っていただくきっかけとなっていればと著者は願っています。

あとがきをご紹介します。

(引用はじめ)
私は毎日、たくさんのお便りをいただきますが、その中に、どういう風のふきまわしか、私に性教育の本をかくようにという要望があります。

すでに、その種の本が多くだされているのですが、それらは、良い意図や努力にもかかわらず、何かぴったりしない、使う気にならないというらしいのです。私は、とても気が進みませんでした。

しかし、改めてこうした本を読んでみて、「よくまあ」と感心したり、「これほどまで」と感じ入り、ますます気が重くなったのですが、たった一つ、勇気がわいてきました。それは、作る側ががんばりすぎて、かんじんの読む子どもの心理や興味や立場が、ほとんど考えられていないことをみつけたからです。

この本は、その勇気に支えられて、生物の中で哺乳類の一員である人間の姿をえがきつつ、私の考えている「生と性」を知ってほしいと思ってかいたものです。

上は、〈あとがき〉のある後扉のイラストです。

1971年童心社より出版され2013年に復刊ドットコムより復刊されたこの本は、お正月のお供えや門松のいろいろ、羽根つきのわらべうたや初夢、かるた遊びに竹馬といった具合に、各月の行事や自然を楽しむヒントが満載です。

12月の最後には、年賀状作りのこんなページもあり、〈年越し〉でおしまいとなります。ご活用ください。

あとがきをご紹介します。

(引用はじめ)
私たちの住む日本は、たいへん幸福なことに春夏秋冬のちがいが、ひじょうにはっきりとしています。しかも地図をみるまでもなく、北太平洋のなかに、東北から南西に細長くのびた島国ですので、四季のうつりかわりのほかに、地理的な多くの変化と様相を同時にもっていることとなります。

こうした地理・気象などの条件のなかで生活してきた私たちの祖先は多様な風習や文化をうみだしてきました。

子どもたちのあそびは、当然、これら日本の風土の影響をつよくうけ色こくいろどられ、たくみにいかしあい、とけあって伝えられてきました。日本の子どものあそびを考えるとき、こうした日本の季節や地理、風俗習慣をぬきにすることはできません。

しかも子どもたちは、決して一部の学者のようにそれを静的な死んだ文献として固定してしまうのではなく、おもしろい、たのしい、よいものをのばす、つまらぬものをどんどんすてさる創造と選択を、たえずいきいきと流動的におこなっているのです。

この本はそうした、たくましい日本の子どもたちとともに、うたい、生活し、さわやかな未来にむかって進んでいく「あそび」」の歳時記にしたいーーーというのが、ささやかなわたしのねがいです。
(引用おわり)

かこさとし あそびの大星雲1 「ひみつのなぞときあそび 生活機器の内部の秘密」(1992年農文協)の前見開きには、下にあるような絵と著者から大人の方に向けたメッセージが記されています。

かこさとしから、おとなのひとへ 「くらしの機器のひみつと なぞなぞ遊び」

(引用はじめ)
子ども時代ふしぎなわけを知ろうとつとめ、なぞをとこうと問いつづける時があります。大勢の中には、めんどうな手数や工夫に挑み、時間を忘れてとりくも子がいます。その時その子にとってそれが楽しく、面白く、うれしいからでした。

疲れた大人は、そうした行動をイヤな仕事や労働や勉強の類だと言いますが、その時その子にはとてもすてきな、ぴったりと合った最高の遊びだったのです。

この巻には私たちの生活や身近な暮らしに関係のある器具、用具、機械の見えない内部の様子や、知らない秘密のからくりを「なぞなぞ遊び」「なぜなぜごっこ」をおりまぜておさめました。

それは科学技術や発明考案で大きな功績を残した先人の、真の英知や苦心の重点を知ってもらうと共に、その先人たちも幼少の頃、なぞに迫り、なぜと追及していたように、たとえ少数でも未知への挑戦をよろこびとする、未来のアルキメデスやエジソンたちに、仲間としての声援を贈りたかったからです。どうぞ楽しんで下さい。
(引用おわり)

この本は、鍵、ピアノ、電池、鉛筆削り、ボール、テレビなど身近にあるものから地下鉄工事、電波望遠鏡、人工衛星などの仕組みやその内部にある秘密を絵とわかりやすい文で紹介しています。中には大人が読んでも「そうだったのか!」と思うものもあります。

そして加古のメッセージにあるように本を開けるとすぐに、なぞなぞあそび①がでてきて、このなぞなぞは合計20問もあります。次から次からへと明らかにされる秘密にきっと夢中になってしまうことでしょう。

あとがきを記します。

知的よろこびは遊びの最高

(引用はじめ)
少々品の悪い表現で子どもを「ガキ」といいます。その飢えた鬼の如き食欲の塊が、食事も忘れて遊びに熱中するのは、決して珍しいことではありません。そして意外にもそれは自動警報つき鉱石ラジオカーの配線のハンダづけだったり、全天星雲星団早見表の下図作成だったりで、大人を驚かせます。

このことは、その子どもがもっている全エネルギーを傾注する対象にめぐり会う時、すばらしい集中力を示すということ、知識獲得や、思考といった知的自発自立行動が次元の高い遊びとなって魅惑歓迎されていることを示します。そうした知るよろこびと考える楽しみの遊びの本として見て頂ければ幸いです。
(引用おわり)

2016/11/19

2016年 ー1ー

今年の10大ニュースとか、◯◯大賞とかが話題になる時期になりました。

2016年は加古里子が90歳を迎え、福井県越前市にある、かこさとし ふるさと絵本館 石石(らく)の開館記念日4月26日にあわせこの公式ウェブサイトを開設いたしました。このことがなんといっても大きな出来事でした。

東京のスタジオで「だるまちゃん音頭」の収録をしたのは、お正月のことでした。

お子さんたちの歌、篠笛、そしてミネハハさんの歌と各々を収録していきます。作曲の飯田俊明さんがOKをだしても納得ゆくまで「もう一度」とくりかえし演奏される篠笛の山崎泰之さんをガラス越し拝見し、プロフェッショナルの心意気を教えられたようで、新年早々にこのような場に立ち会えたことは大きな刺激と一年に向けての意気込みを固めることとなりました。

京都では茂山逸平さんとお弟子さんによる振り付けを録画して、ついに、だるまちゃん音頭のCD・DVDが完成しました。

桜が満開の4月3日、東京・にしすがも創造舎での福音館こどものとも創刊60周年のイベント「だるまちゃんデー」では体育館いっぱいにだるまちゃん音頭と太鼓の音が響きわたりました。

(にしすがも創造舎でのだるまちゃんデーに行われた巨大だるま落としは、力を入れるタイミングがなかなか難しそうでした。)

テレビ局の取材クルーも到着。体育館にはやぐらも組まれ万国旗よろしく、だるまちゃんの表紙の絵が会場を飾り準備も整いました。

地元のお子さんたちによる見事なバチさばきで音頭は一層盛り上がり、大人も子どもも輪になって何回も踊りました。
ノリの良いミネハハさんの歌声は一度聞いたら忘れられません。実はミネハハさんは筆者の中学・高校時代の上級生で生徒の頃から、その歌唱力は学校中に知られていました。11月22日(火)夜8:57~「マツコの知らない世界」(TBS)に出演されるそうです。

「だるまちゃん音頭」は以下の福音館書店さんのホームページにあります。
寒くなってきますが、音頭を踊って寒さを吹き飛ばしてください。

http://www.fukuinkan.co.jp/ninkimono/daruma/ondo.html

「にんじんばたけのパピプペポ」(1973年偕成社)は出版以来、熱烈な支持をいただいている絵本の1つです。

なまけものの20匹のこぶたが、仲良しになって、にんじん畑を耕すまでになる物語で、教訓めいていないけれど見習わなければと思う物語です。この20匹のこぶたの名前が、すこぶる変わっていて、全てパ行、バ行の音で始まるのです。パタ、ピタ、プタ、ベコ、ポポコ・・・

どのような意図で作られた物語なのかを、著者があとがきで語っています。

あとがき かこさとし

(引用はじめ)

病気から身体をまもるには、病気にかかってからさわぐより、日頃から病気にかからないよう注意したり、身体をきたえたりするほうが大切だといわれています。いわゆる『予防医学』が大事なわけですが、そうはいっても、いったん病気にかかってしまったら、病気の苦しみをやわらげたり、熱をさげたりする『対処療法』も必要となってきます。

私が20年ほど、子ども会で遊びころげまわっていたころの目的は、十年、二十年後の子どもたちや、その時の世の中が少しでも楽しく、豊かにと念じた『予防医学』のようなものでしたが、そうした子どもたちにも日日いろいろな悩みや困ったことがあって、毎日、わたしたちにその相談がもちこまれました。

たとえば、女の子とみればすぐいじめたがる子だとか、六年生にもなっておねしょがなおらない子だとか、校長先生からふだつきの不良だきめつけられた子だとか、何かというと、すぐおぶさったり、ぶらさがりたがる子や、いつも三時間くらい家出(?)するくせのある子だとかのために、わたしたちはいろいろの『対処療法』を紙芝居やお話しや絵物語で試みました。それは、正式の童話や児童文学からみればおかしなものでしたでしょうが、わたしたちには、それがそのとき必要であったのです。

こんど本にするにあたって、すっかり書きなおしたのですが、その当の子はもう立派なおとうさんになっていて、今ではにんじんぎらいかもしれない子のために、いろいろ『対処療法』を工夫したり、子ぶたのおとうさんのように、せっせとはたらいているのではないかと思っています。
(引用おわり)

尚、本文は縦書きでで漢字にはすべてふりがながありますが、ここでは省略しました。

物語の最後のぺージには、出来上がった大きな劇場とこぶたたちの新しいレンガの家が見えます。この大劇場が続編「パピプペポーおんがくかい」」(2014年偕成社)の舞台となるのです。

"道具"というと何を思いうかべられますか。
調理器具、文房具、勉強道具、玩具、遊具、大工道具でしょうか。

「あなたのいえ わたしのいえ」(1969年福音館書店)の最終ページには次のような言葉があります。

「・・・いえは ひとが かんがえ くふうしてつくった おおきな くらしの どうぐです。くらすのに べんりな どうぐのあつまりです。・・・」

科学絵本「どうぐ」

科学絵本「どうぐ」は、その翌年1970年に福音館書店から「かがくのとも」11月号として発行され、2001年から現在にいたっては瑞雲舎で出版されています。「どうぐ」の書き出しはこうです。

「あなたの うちには どうぐが たくさん ありますね。」

朝起きて歯磨き、歯ブラシは立派などうぐです。スプーン(著書ではおさじという言い方)はすくうどうぐで、すくうどうぐの大きなものには・・・というようにページが進んでいきます。

上は「どうぐ」。福音館書店1970年版の折り込み付録(全8ページ)の3ページには、この本に寄せる著者の言葉がありますのでご紹介します。

道具を、かしこく使おう 加古里子

私たちは、毎日、道具をつかってせいかつしています。道具はあんまり身近で使いなれているため、その効用や便利さを忘れがちです。しかし、ひとたびゆっくり私たちの生活のすみずみをみなおしてみるとじつにさまざまな道具を、かず多く使っていることに気づきます。

家庭の主婦はもちろん、ちいさな子どもたちも決して例外ではありません。しかも、道具を使っていることを忘れがちなくらい、すでに道具は私たちの手足の一部、生活とはきっても切れぬものとなっています。それが、この「かがくのとも」の「どうぐ」第1章で、わたしがのべたいと思ったことです。

第2章は、そういう子どもたちや家庭内の身近な道具類の働き、機能がそのまま拡大され、強力化され、まちや工場で使われるということをかきました。これは機器設備とよばれるものです。巨大な工場の設備や大きなうなりをたてる機械が、なんのことはない、私たちの身近にあるものの、単に大きくなったものだということがわかれば、機械に対するつまらない恐れやおののきは無用のものとなります。はさみやおしゃもじを使う優越感をもって、そうした、なりだけが大きい機械に親しみ、対処するようにしたいものです。

(上は「どうぐ」10-11ページ)

以上、のべた2点は、あるいは、従来のほかの本でもかかれた点であったと思います。しかし、この「どうぐ」の本では、そのうえに、第3章をつけくわえました。

それは、小さな道具の集合集積、組み合わせによって、まったくちがう、新しい機能をもつどうぐがつくられるという点を、ぜひつけくわえたかったからです。近ごろのことばでいえば、システム化とか複合化とかいうことになりましょう。または、道具の質的変貌というようにいえるかもしれません。

以上の3つの章は、ある意味では、別々のものでありながら、たがいに関連し、補足しあって、現在の道具を物語ってくれる大事な点だと考えます。

ところで、マッチのじくというりっぱな道具を、時には、つまようじや耳かきに使うことがあります。この時、マッチ棒は、「火をつける道具」ではなく「耳をそうじする道具」となっています。つまり、道具というものは、その外見やかたちではなくて使う人の立場、条件によって、どんなにも変わってしまいまいます。道具が人びとの生活に役立ったり、目的を変えたり、逆に人びとを不幸にするかどうかは、それを使う人間の条件、立場が大事になってくることをしめしています。このことこそ、今日の道具のいちばん大事で忘れてはならない点だと思います。原子力などは、そのよい例でしょう。

なんだか、むずかしいことをかきましたが、以上が私の作品にはめずらしく(?)3つの部分からなっている理由ですし、やはり主題はなんとかの1つおぼえで、「みんなで、道具を、かしこく使おう」ということです。