編集室より

『たこ』は1975年 福音館書店より「かがくのとも70号」として刊行され、その時の折込付録には、加古による「たこ たこ 上がれ」と題する文章がありました。前半は、幼い日の忘れ得ぬ思い出が綴られ、後半はこの科学絵本に関してのいろいろが書かれています。2回に分けてご紹介します。

「たこ たこ 上がれ」 加古里子

幼い日のソーシキだこ

私の生まれたところは北陸福井の武生と呼ぶ小さな街。うかつなことに、先月若くして逝かれたいわさきちひろさんが、その同郷の先輩だとは知らないまま、その美しい、そして厳しいこまやかな筆跡を私淑しつつ、いつでもご挨拶できると思ってとうとうお目にかかる機会を失ってしまいました。私よりも、娘たちの方が悲しんだりなげいたりして、私の世間知らずを指摘したり、かえすがえすも心残りのことでした。

その奇しくも同じ町に数年後に生まれた私にとって、わずか7年間の短い生活は、後年雪を語り、ほたるを論じ、おちあゆや山鳥の紅をあげつらうことができる唯一の私のよりどころとなりました。もしその7年間が私になかったなら、子ども時代の遊びの良さや重要さを、今ほど強く自信を持って話しかけることができなかったでしょう。その幼い日の私の思い出のひとつに小さなたこの事件(?)がありました。

私はまだお寺の幼稚園児、ひとまわりちがう兄は中学校の最上級生で医学校への受験に追われていました。その兄がある北風の吹く日、それこそどういう風の吹きまわしか、私にたこを作ってくれたのです。からかさの骨を2本使った長崎のハタだこを正方形にしたような簡単なソーシキだこでした。手作りのたこの絵も字もかいていないまっしろなたこのことを子どもたちはそう呼んでいたのです。

(下の絵は表紙にある長崎はただこ)

ところが、兄の作ってくれたソーシキだこは、奇妙に頭を左右に振りながら、すいすいととてもよく上がっていくのです。久方ぶりに兄が相手をしてくれた嬉しさと、たこの上りの良いのとに、私はたいへん大喜びで、どんどん糸をくり出しました。たこは土手を越えてひろい日野川のはるかかなたにふらふらと小さく白く上がってゆきました。ところが、たぐり出していた糸の最後が、糸巻きにしばってなかったので、あっといったときには、もうたこは川向こうにくらげみたいな格好でひらひらとおちてゆきました。涙いっぱいの私をあとに、兄は自転車に飛び乗り、村国橋を大回りして追いかけました。目をさらのようにして向こうの土手をみても、数百メートルの川向こうには兄の姿もたこの影も、いつまでたってもあらわれません。待ちくたびれた私は、ひとりとぼとぼと向こうの土手に行ったものの、やはりたこもなければ兄の自転車も見つかりませんでした。もう悲しさがいっぱいになったとき、見知らぬ若い人が、「坊や、たこをとばしたんだろ?」と私の顔をのぞきこみました。こっくりすると、ほらそこにあるよと示し土手の草に、糸の先が結んであって、白いソーシキだこがさっきと同じようにちいさく冬の田の上を泳いでいたのです。

それからひとりでたこをおろして家へかえると、さがしくたびれた兄が、どうしてあえなかったのかなあと言いつつ、私のこんがらかした糸を文句を言いながらきれいにといてくれました。

たこというとき、私にとってはこの事件がいつも心によみがえってきます。それ以来このたこは私の得意の科目のひとつとなりました。もちろん、トラをかいたりノラクロをかいたりしてソーシキだこにはしませんでしたが、この独特な頭のふり方で上がるこのたこは、私にいつも兄とのぞきこんだ若い人を思い出させてくれたものです。