編集室より

2018年、だるまちゃんシリーズに『だるまちゃんとはやたちゃん』『だるまちゃんかまどんちゃん』『だるまちゃんとキジムナちゃん』が加わりました。一度に、三作品が単行本として出版されるのは今までのだるまちゃんの絵本からみて異例のことです。

加古が「死んでからでも出して欲しい」と編集の方にお話したのがきっかけで、社をあげて取り組んでいただいたおかげで、加古の存命中に三作品が出版されました。どうしても伝えたかった作品に込めたメッセージについて加古が直接取材のテレビカメラや記者さんに語る事が出来ました。

この三作品の前に出版された『だるまちゃんとにおうちゃん』にも、加古の忘れられない思い出がその底に流れています。ハードカバーになる前に「こどものとも」2014年7月号として刊行された時の付録「絵本のたのしみ」から加古里子の言葉をご紹介します。

作者のことば

「におうちゃん」について 加古里子

(引用はじめ)
1938年(昭和13年)、中学生になった私は、航空機に熱中しているヒコー少年だったが、同時に図書館に入り浸る毎日でもあった。2年生となった早々、担任から「諸君はまもなく元服となるのだから、自らの生存の意義を求め、人生の目標を定め努力すべし」と喝を入れられた。それで数日考えこみ、世の中に貢献するため進学したいが、父の収入では無理なことがうすうす判っていたので、学資不要の軍人の学校に行き航空士官なることを目標とした。

目標の達成のため、必要な学課のみに集中し、図書室など自ら出入を禁じたが、近視の度が進み、同じ目標の級友は次々合格するなか受験の機会も与えられず、空しさのなか工学へ進んだ。

1945年(昭和20年) 4月、戦災に会い、仮小屋を転々としたあげく、やっと宇治の貸家に辿りついた時、敗戦となった。9月に単身上京したが、混乱する社会と食糧難に疲れ、軍人になった同級生の特攻機での死を知り、悔恨と慚愧(ざんき)に包まれ、講義も身に入らず、何のために生きるのか、咆哮(ほうこう)を続けた。

それでも夏冬の休みには、両親へ状況報告に満員鈍行夜汽車で帰り、近くの黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)の静かな境内に行くのが唯一の慰めだった。その折、蝉や松果(しょうか)と遊ぶ子どもたちによき未来を託するには何をしたらいいかと迷走していたことを思い返し、今回の作に込めた次第です。したがって、現在は整備されているようですが、寺院の状況は当時の記憶に残っている様子を描きました。
(引用おわり)

こうして、加古はこの迷いへの答えとして92歳まで子どものために絵本を描き続けることになったのでした。

帰らぬ人となりましたが、どうか作品の中で、かこさとしに出会っていただけたらと願っております。年末にあたり、この一年、多くの皆様から頂戴した、たくさんのお心のこもった言葉に改めて感謝御礼申し上げます。どうか佳き新年をお迎えください。