編集室より

『だんめんず』(福音館書店)が1973年に「かがくのとも」として刊行された時の折り込み付録には、「だんめんず」と「かがくの本」と題する加古里子の長い文章が掲載されていました。珍しく自分の事、成績のことにも触れてていることから、断面図など図面を書くことがよほど好きだったことがうかがい知れます。2回に分けてご紹介します。

「だんめんず」と「かがくの本」 加古里子

図学の試験

私は戦争中、旧制の高等学校の理科甲類に在学していました。理科甲類というのは、将来工学や理学を専攻する者のクラスで、理乙は医学や農学系のクラスでした。だから私たちのざれ歌に「理甲の頭をたたいてみれば、サイン、コサインの音がする」とか「理乙、理乙といばるな理乙、末はタケノコ、ヒトゴロシ」というのがあったわけです。

その理科甲類の生徒は、図学という学科をしなければなりませんでした。用器画とか幾何の学課をひろげたようなもので、将来機械とか建築の仕事に従事して、製図をしたり、図面をよみとったりするための必要な課目でしたが、何しろ定規できっちり線をひいたり、コンパスをいじったりして面倒なものですから「図学(ドロウ)はドロン」といって、いつの間にか教室を逃げ出したり、敬遠するのが普通でした。

ところがおかしなことに、わたしこのドロウが大好きで、最も得意な学科の1つでした。その理由としては、数学をはじめもろもろの学課がほとんど抽象的でありすぎる中で、最も明瞭具体的であったからかも知れませんし、絵画などの学課がない当時の高等学校の課目の中で、最も「芸術的なかおり」があったゆえかも知れません。

そんなわけで明日は図学の試験があるという前夜、寮の級友たちは徹夜でコンパスなどをふりまわしているなかを、私1人さっさとねてしまっていました。しかし、翌朝の私は、定規やコンパスのよごれをきれいにふきとり、手やゆびをよく洗って教室に入りました。そして答案をかく際も、下の机の小穴や木の目で、図面にいらざるよごれや濃淡がつかないよう配慮して仕上げることに注意を注いでいました。私の場合、大げさに言うなら、問題の正解に腐心している級友をしり目に、その段階よりも1段階上の、どうしたら見やすい美しい答案図に仕上がるかを考え、それを目標にしていたのでした。したがってほとんど図学の試験は満点に近い成績をとりつづけていたと覚えています。

ザンコク物語

この図学の時間の中で、私が1番興味を持ったのは「透視図法」と「切断」の章のところでした。透視図というのは線路が遠くになるにしたがってちいさくなって行き、電柱の高さがだんだん短くなって見える様子を幾何学的に図表化する方法ですから、まるで絵画と同じでしたし、若き日のダ・ビンチが研究していたというものですから、もう夢中になってしまいました。一方の切断ということは、ある立体とある面が交差したり、よこぎった場合、両方に属する部分の形や位置をえがく方法です。普通は立体と平面との場合ですが、実際にはらせん階段がまるいホールの壁につながる箇所など、立体と曲面の場合も案外あるものです。当時の私は金属コンンクリート製のものを、まるで大根かキュウリのほうに、スッパスッパきることのおもしろさつられて、ノートのはじに難攻不落の大要塞の断面図をえがいたり、肩から腹にかけてけさがけにきったなまなましい人体断面図を作ったりしていました。(少々若げのいたりでザンコク趣味があったのでしょう)

「かがくのとも」3月号「だんめんず」は、こうした私の高等学校以来の図学的考えや試みがつみ重なってでき上がったものです。学者や本によって截断面(せつだんめん)、截面、切面、切断面、截切面などいろいろの名称がつかわれていますが、ここでは一番普遍的な断面及び断面図という名称を使わせていただくことにいたしました。