編集室より

薫風の候、「あおによし ならのみやこは 咲く花の におうがごとく いまさかりなり」という万葉集の和歌が思い浮かびます。

奈良の都、平城京のことを想い詠ったものですが、奈良の大仏様についての絵本のあとがきをご紹介します。大型絵本『ならの大仏さま』(1985年福音書店・2006年復刊ドットコム)は、その題名から歴史ものと思われるかもしれません。確かに、奈良の東大寺にある大仏様のことを中心にすえていますが、その長い、しかも複雑な歴史を整理しつつ科学的な分析を加えている、かこさとし流の科学絵本です。
長文ですので3回に分けて掲載します。

広い科学的な立場

(引用はじめ)
この本を書いた動機を一言で述べるなら「どうして大仏を立てたのかを明らかにしたい」ということでした。そのため私は次の三つのことを心がけました。

その第一は「広い科学的な立場で記そう」としたことです。これまで、奈良の大仏に関しては、歴史・美術・宗教・建築・治金等、種々な専門分野の論文や研究が公刊され、それにより貴重なことがらを私たちは知ることができました。

しかし大仏のような複雑な状況と背景の中で作られた建造物には、諸分野の研究の単なる集合ではなく、外見や皮相の動きに迷わされず、隠れた本質を見抜く鋭い目と、偏らずに全容全貌に過不足なく及ぶ統合された科学的な視野が要求されます。特に対象が巨大な構築物ですから、土木建設の技術的視野を持たなければ、判断を誤る恐れがあるように思いました。

もとより私は、土木工学を専攻したものでもなく、また広い綜合力を備えたものではありませんが、大仏にとりくむからには、科学的視野に立つことを最低の義務とし、覚悟として、探索と記述に努めました。その結果、次の二点をご報告できるようになりました。

その一点は、これまでの本や教科書には多量の金が使われたように記載されていることです。仏体銅座の表面積、金アマルガム法の錬金技術や、当時の単位である天平小両の換算法等を綜合点検することで、p29に示した使用量が明らかとなり、そのために苦心した関係者のようすやいろいろな策略とその影響をp37〜41 に描くことができました。

もう一点は、大仏を鋳造する時、仏体より銅座を先に造ったか、後からという論争についてのことです。学者の間で長く論議が続けられている、いわゆる銅座先鋳・後鋳説の両論は、その論旨・文献・傍証・推理等に、これまでの学問的蓄積のすべてをつくして、甲乙つけがたい論争となっていました。しかし科学的記述のためには、両論の学者が触れていない、新しい、私なりの資料を示さなければなりません。

最適なのは、土木学会誌(昭56・1)に述べたように、大仏の基礎構造を明らかにすることですが、それには超音波等による非破壊試験や、コンピューターを使ったシュミレーションによる想定試行実験が必要です。

しかしそれは多くの困難を伴い、個人ではできぬ事でしたが、ふと建立70年後の事故の記録に気づきました。わざわざ非破壊テストやシュミレーションによらずとも、現実に破壊テストが行われ、ありがたいことに、変化が起こった箇所と数量、方角、種類、その後の状況についての記録がきっちり残されているのです。この記録と大仏の基本諸元によって、当時の基礎構造を逆算すれば、日本土木協会誌(昭57・6)に発表掲載した結果が得られ、それにもとづきp30〜31、p56〜57を記述したわけです。

以上のほか、各場面の記述について、自然科学と社会科学両面からの検討考察をくわえました。また、家屋・服装・調度品の色や形あるいは草木や幟・幡などの描写についてそれぞれ検討理由を記述すべきところですが、あまりに煩雑になるため、残念ながら割愛いたしました。
(引用おわり)