編集室より

半世紀以上も前のことです。筆者の通っていた小学校では月曜日の朝には、雨でない限り、全校生徒が校庭に集まって朝礼、校長先生のお話がありました。その内容はほとんど忘れてしまいましたが、訓示のようなものが多かったように記憶しています。その中で今でもはっきり覚えているのは関東大震災が起きた時のお話でした。

1923年9月1日、2学期が始まるその日、校長先生はまだ小学生で始業式を終えてお母さんと兄弟とでちゃぶ台を囲みお昼を食べていた時に大きな揺れに襲われたそうです。当時の私にしてみれば関東大震災は遠い昔のことと思っていたので、その体験をした人から直接話を聞き大きな衝撃を受けました。

地震が起きた時「日本の近代的な物理の土台を築いた一人、長岡半太郎」博士は神奈川県の三浦半島に避暑にきていて、「はるか北方に見える東京の火煙の様子を、時間を追ってスケッチし、その色の変化をこまかく記録し、数日後には彩色した絵を仕上げ」たそうです。

「人びとは3日も燃える煙を見て悪魔の雲だとさわぎ、(中略)あやしげなことを言いふらしたのを、長岡博士は正確な煙の記録を示し、魔法や陰陽術のせいでないことを人びとに教えた」と『科学者の目』(2019年童心社・上)にあります。

今でも伝えられている井戸水に毒薬がいられたという流言飛語は「伝染病をおこさぬため、生水を飲まぬようという注意があやまって伝えられたり、一部の悪質な者の策動だった。長岡博士はこうした根も葉もないデマを、科学者の目をもって一つひとつつぶし、他の学者や学生とともに救援活動をおこなう間、観察したことを冷静に記録し(中略)のちに、この大地震のようすを調べ、対策を考える上に貴重な基礎資料となった」そうです。

こうした博士の逸話を紹介し、最後にかこは次のように結んでいます。
(引用はじめ)
大きな混乱の中では、私たちはともすれば真実を見失いがちである。そういう時こそ、この科学者の冷静な目にならって、私たちも何が正しいか、何が人々に不幸をもたらしているのか、どうすれば真の発展に向かうのかを見失わぬようにしたいものである。
(引用おわり)

コロナ禍の真っ只中、この言葉は筆者の心に強くつきささります。

下は『世界の化学者12か月』(2016年偕成社)の4月の項目で「日本のすばらしい三太郎」として紹介されている鈴木梅太郎、長岡半太郎、本多光太郎の三博士。