編集室より

1987(昭和62)年、当時の環境庁が開催した「環境管理シンポジウム」で加古は「子供の遊び」と題した基調講演をし、その要旨が報告書として配布されました。そこに掲載されている文章の後半を2回に分けてご紹介致します。

尚、前半は「石けり」についてで、3歳では片足、次に両足で進んでいく「けんぱ」、4歳になると片足、もう一度同じ足の片足、そして両足で進む「けんけんぱ」ができるようになると具体例をあげ説明しています。

(引用はじめ)
子供の遊びと言うのは、成長に応じて次々に出てくる。鬼ごっこは走れるようになって初めてできるわけで、まだ走れない子供は、お兄ちゃんが鬼ごっこをしている姿を見て思いをつのらせている。発達の度合いに応じて遊びがあり、遊びによって子供は成長していく。子供の成長と遊びは相補的である。

遊びはまた膨大な時間の無駄である。子供の遊びは計画性がなく、行き当たりばったりである。例えば、原っぱで足元から飛び出すものがある。なんだろう?
日本のバッタは幸いにしてあまり遠くへ飛んでいってしまわないので、子供は全速力で追いかける。10M位全力で走る。急停止する。呼吸を整え、手をのばす。また飛び立つ。10Mまた全速力で走る。急停止。呼吸を整え、手をのばす。また、飛び立つ、バッタとて必至である。

学校の体育の授業は、昨今は先生も随分気を遣っているようだが、時たま、心臓麻痺で倒れる生徒がいる。バッタ取りで心臓麻痺になった子供はいない。つらくなったら、やめればいのだから。

走り疲れてふと足元を見ると、血が出ている。なめてみる。しょっぱい。「ははあ、ススキのせいだな。」ススキは切れる。血はしょっぱい。こうして子供はいろいろなことを覚えていく。幼稚園でわざとすすきで、子供の足を切らせるわけにはいくまい。

遊びの世界の行為は、自発的に、自ら好んで(たまたまバッタがいたから)行うもので、自分の責任でするものである。だから、子供はたとえ足を切ってもそれに耐える。受身ではない。自分で選んだ結果として受け止める。こうして子供は「自立」を自分のものにしていく。
(引用おわり、つづく)
絵はいずれも『あそびずかん なつのまき』(2014年小峰書店)より