編集室より

"道具"というと何を思いうかべられますか。
調理器具、文房具、勉強道具、玩具、遊具、大工道具でしょうか。

「あなたのいえ わたしのいえ」(1969年福音館書店)の最終ページには次のような言葉があります。

「・・・いえは ひとが かんがえ くふうしてつくった おおきな くらしの どうぐです。くらすのに べんりな どうぐのあつまりです。・・・」

科学絵本「どうぐ」

科学絵本「どうぐ」は、その翌年1970年に福音館書店から「かがくのとも」11月号として発行され、2001年から現在にいたっては瑞雲舎で出版されています。「どうぐ」の書き出しはこうです。

「あなたの うちには どうぐが たくさん ありますね。」

朝起きて歯磨き、歯ブラシは立派などうぐです。スプーン(著書ではおさじという言い方)はすくうどうぐで、すくうどうぐの大きなものには・・・というようにページが進んでいきます。

上は「どうぐ」。福音館書店1970年版の折り込み付録(全8ページ)の3ページには、この本に寄せる著者の言葉がありますのでご紹介します。

道具を、かしこく使おう 加古里子

私たちは、毎日、道具をつかってせいかつしています。道具はあんまり身近で使いなれているため、その効用や便利さを忘れがちです。しかし、ひとたびゆっくり私たちの生活のすみずみをみなおしてみるとじつにさまざまな道具を、かず多く使っていることに気づきます。

家庭の主婦はもちろん、ちいさな子どもたちも決して例外ではありません。しかも、道具を使っていることを忘れがちなくらい、すでに道具は私たちの手足の一部、生活とはきっても切れぬものとなっています。それが、この「かがくのとも」の「どうぐ」第1章で、わたしがのべたいと思ったことです。

第2章は、そういう子どもたちや家庭内の身近な道具類の働き、機能がそのまま拡大され、強力化され、まちや工場で使われるということをかきました。これは機器設備とよばれるものです。巨大な工場の設備や大きなうなりをたてる機械が、なんのことはない、私たちの身近にあるものの、単に大きくなったものだということがわかれば、機械に対するつまらない恐れやおののきは無用のものとなります。はさみやおしゃもじを使う優越感をもって、そうした、なりだけが大きい機械に親しみ、対処するようにしたいものです。

(上は「どうぐ」10-11ページ)

以上、のべた2点は、あるいは、従来のほかの本でもかかれた点であったと思います。しかし、この「どうぐ」の本では、そのうえに、第3章をつけくわえました。

それは、小さな道具の集合集積、組み合わせによって、まったくちがう、新しい機能をもつどうぐがつくられるという点を、ぜひつけくわえたかったからです。近ごろのことばでいえば、システム化とか複合化とかいうことになりましょう。または、道具の質的変貌というようにいえるかもしれません。

以上の3つの章は、ある意味では、別々のものでありながら、たがいに関連し、補足しあって、現在の道具を物語ってくれる大事な点だと考えます。

ところで、マッチのじくというりっぱな道具を、時には、つまようじや耳かきに使うことがあります。この時、マッチ棒は、「火をつける道具」ではなく「耳をそうじする道具」となっています。つまり、道具というものは、その外見やかたちではなくて使う人の立場、条件によって、どんなにも変わってしまいまいます。道具が人びとの生活に役立ったり、目的を変えたり、逆に人びとを不幸にするかどうかは、それを使う人間の条件、立場が大事になってくることをしめしています。このことこそ、今日の道具のいちばん大事で忘れてはならない点だと思います。原子力などは、そのよい例でしょう。

なんだか、むずかしいことをかきましたが、以上が私の作品にはめずらしく(?)3つの部分からなっている理由ですし、やはり主題はなんとかの1つおぼえで、「みんなで、道具を、かしこく使おう」ということです。