『ごむのじっけん』(福音館書店)その2
「ふしぎな素材」をテーマに 加古里子
「かがくの本」とは?
ところでいったい、「かがくの本」というものは何なのでしょうか?それは、「たくさんある科学知識を切りきざんで、細切れにして売る本」でも、「最近の科学情報をこじんまりとまとめたミニコミ版」でもないはずです。まして、「複雑多岐に分かれた近代科学の諸分野を、わかりやすく絵ときした本」でもなければ「おとなも少々、答えに困る内容を、マンガなどをいれて読みやすくした読物」を「かがくの本」ということはできないでしょう。「かがくの本」というばあいの科学の要点として、
① 目的や目標をハッキリすること。
② 実施の方法や手順を、すじ道たてて計画すること。
③ 成果や失敗から得られる法則や教訓を整理し、体系化すること。
④ 客観的な事実の認識の上にたって、すべてにわたって合理的な考えを、判断の基準とすること。
があげられます。芸術や宗教、さては経営や政治などはこのうちの1つや2つを欠いても問題となりませんが、科学はこのうちの1つも欠かすことができません。
また、「本」というものの持つ性格は、次の事項にまとめられるでしょう。
① 現在おいては、印刷形式と製本形態をとり、現在の社会では一種の商品として売買されること。
② 単色ないし色彩による文字、記号、図形、写真、数式などによる伝達方式であること。
③ 表面的な売れ行き、人気などは、ただちにその内容の良否、価値を示すことにはならず、読者への効果影響はゆっくりとして波及顕在化すること。
こうした「科学」と「本」を単に加算しても、よい「かがくの本」の基準とすることができません。やがて、いろいろな方の研究がこの分野にも行なわれることでしょうが、私自身の判断の目やすとして、次のような項目を、よい「かがくの本」の基準と考えたいと思っています。
A. 内容が正しく、間違っていないこと。
(当たり前のようですが、よく考えると、なかなかこれはむずかしいことです。本を読む立場と、つくる立場の両方から正しいと言うことと、商品であることを全うさせるには、多くの複雑で困難な問題をふくんでいます)
B. 内容が発展的に書いてあること
(科学の発展が急激である現代、5年前のものではもう役にたたぬ場合が多く出てきています。時には古い考えや解釈は誤りであることさえあるのです。したがって、現在の時点のみに固定した表現や断定をしている本は、消して、よい本とはいえません。どうしても将来への発展方向を見さだめた上での、永続性のある表現が求められてきます)
C. 文・画・写真などが一体となって展開していること。
(本は視覚による伝達方式ですから、単に文字だけよりは図形を伴った方が、より的確な表現、より印象的な伝達が可能になります。しかしだからといって、このごろの漫画のように、当然文字表現によるべきところまで絵に置き換えたり、文字による方が、より読者の成長発展をもたらすはずであるのに、過度に図版を使用する事はさけなければなりません。もっとはっきり断定的にいうと、本という伝達媒体の主軸は、やはり文字であることを考えておくべきでしょう)
D. 興味性によってうらづけ貫かれていること。
(1冊の本を読み通し、その内容を理解し、何ものかをつかみ、さらにそれを発展させる力は、読者の側の働きにかかっています。そのような読者の力を発揮させるには、本にもられた面白さだけが力となります。なぜならどんなに素晴らしい内容や行動の理論も、読まなければそこで停止し、おしまいとなってしまうからです。本による影響効果の原動力となるものは、この興味性です。そしてこの興味性は、読者の水準により、いくらでも高くもなるし、また、いくらでも低俗に落ち込む性質を持っています)
E. できるだけ安く、しかも相応に高価であること。
(禅問答のような、この意味は、本というものがその内容がよければよいほど、多くの人々に読まれなければならないので、できるだけ安価にする努力が望まれます。しかし、内容と表現の隅々まで細心の注意と創造力が傾注されていなくては、良い本はできません。そうしたい本は、それだけの労働の産物ですから、それに見合う価値が正当に求められてしかるべきでしょう。それは高価であってもおかしくなく、むしろ高価を主張しうるにふさわしい内容が求められます)
F. 今日、その本の存在意義があり、更に将来にわたって必要なものであること。
(本の必要性が今、求められるとともに、過去にあった本との対比、外国の類書との比較で、進歩と独創性が誇れるかどうかが求められます)
さて、こうした私自身のA~Fの目安によって、「ごむのじっけん」はいったい「かがくの本」として合格でしょうか、どうでしょうか? 気の小さい私の心が今、ゴムのように、のびたり、ちぢんだりしているところです。