あとがきから

『この本読んで!2018年冬号』の特集〈かこさとしの贈りもの〉で「どうしても伝えておかなければと書き続けた作品もあります」とお伝えしました。それは一体どんなことかといえば、311であったり太平洋戦争のことなのですが、他にも理不尽な苦しみに耐えて暮らしてきた先人たちに加古は思いを寄せていました。

20代30代の頃に研究した日本各地に伝わる昔話には、正面きって口にすることができなかった人々の苦しみや思い、願いが込められていて、それを汲んで加古は創作昔話として作品にしています。

「かこさとし語り絵本5」として『青いヌプキナの沼』(1980年偕成社)が出版された当時、人種問題は遠い国の話で無縁のことのように思っていたように記憶しています。しかし加古はアイヌや琉球の人々のことをずっと以前から見つめていました。残念ながら本作は絶版になっていますが、あとがきに記された加古の思いをお伝えしたく掲載します。

あとがき

(引用はじめ)
同じ人間でありながら、肌の色や風習が違うというだけで、地球上では、いまだに争いや憎しみが絶えません。しかもそれは、中近東やアフリカの例に見るように、人間の心を救うはずの宗教がさらに対立を激しくさせていたり、インディアンや黒人問題にみるように、文明や開発の名のもとに非道なことが行われてきました。そしてそれらの事は何も遠い国の古い事件ではなく、この日本でも起こっていたし、今なお形を変えておこなわれていることに気づきます。

強大な武器や圧倒的な経済力、悪どい策略によって、勝者は輝かしい歴史を書き上げます。しかし、反対にそれによって奪い取られ、追いはらわれ、閉じ込められた側には、わずかな口伝えしか残りません。そうした小さな伝説や名残の中から、ふと耳にした白いヌプキナ(すずらん)の花の物語は、涙のつらなりのように私には思えました。汚れた栄光で見失ってはならないものを、埋もれてはならないものを、この国の中で、この国の子供たちに知ってほしいと思ってまとめたのが、このお話です。
かこ さとし
(引用おわり)
本文は縦書き、すべての漢字にふりがながあります。

2018年、だるまちゃんシリーズに『だるまちゃんとはやたちゃん』『だるまちゃんかまどんちゃん』『だるまちゃんとキジムナちゃん』が加わりました。一度に、三作品が単行本として出版されるのは今までのだるまちゃんの絵本からみて異例のことです。

加古が「死んでからでも出して欲しい」と編集の方にお話したのがきっかけで、社をあげて取り組んでいただいたおかげで、加古の存命中に三作品が出版されました。どうしても伝えたかった作品に込めたメッセージについて加古が直接取材のテレビカメラや記者さんに語る事が出来ました。

この三作品の前に出版された『だるまちゃんとにおうちゃん』にも、加古の忘れられない思い出がその底に流れています。ハードカバーになる前に「こどものとも」2014年7月号として刊行された時の付録「絵本のたのしみ」から加古里子の言葉をご紹介します。

作者のことば

「におうちゃん」について 加古里子

(引用はじめ)
1938年(昭和13年)、中学生になった私は、航空機に熱中しているヒコー少年だったが、同時に図書館に入り浸る毎日でもあった。2年生となった早々、担任から「諸君はまもなく元服となるのだから、自らの生存の意義を求め、人生の目標を定め努力すべし」と喝を入れられた。それで数日考えこみ、世の中に貢献するため進学したいが、父の収入では無理なことがうすうす判っていたので、学資不要の軍人の学校に行き航空士官なることを目標とした。

目標の達成のため、必要な学課のみに集中し、図書室など自ら出入を禁じたが、近視の度が進み、同じ目標の級友は次々合格するなか受験の機会も与えられず、空しさのなか工学へ進んだ。

1945年(昭和20年) 4月、戦災に会い、仮小屋を転々としたあげく、やっと宇治の貸家に辿りついた時、敗戦となった。9月に単身上京したが、混乱する社会と食糧難に疲れ、軍人になった同級生の特攻機での死を知り、悔恨と慚愧(ざんき)に包まれ、講義も身に入らず、何のために生きるのか、咆哮(ほうこう)を続けた。

それでも夏冬の休みには、両親へ状況報告に満員鈍行夜汽車で帰り、近くの黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)の静かな境内に行くのが唯一の慰めだった。その折、蝉や松果(しょうか)と遊ぶ子どもたちによき未来を託するには何をしたらいいかと迷走していたことを思い返し、今回の作に込めた次第です。したがって、現在は整備されているようですが、寺院の状況は当時の記憶に残っている様子を描きました。
(引用おわり)

こうして、加古はこの迷いへの答えとして92歳まで子どものために絵本を描き続けることになったのでした。

帰らぬ人となりましたが、どうか作品の中で、かこさとしに出会っていただけたらと願っております。年末にあたり、この一年、多くの皆様から頂戴した、たくさんのお心のこもった言葉に改めて感謝御礼申し上げます。どうか佳き新年をお迎えください。

2018年1月から藤沢市役所1階に毎月かけ替えていただいていた『こどもの行事 しぜんと生活』の表紙絵もいよいよ最後となりました。12月のまきは、ご覧のような絵。それぞれ何か持ってうれしそうですが、特に羽子板を持っている人たちの笑顔が印象的です。本文にはこうあります。

(引用はじめ)
「年末に、各地で羽子板をうる市がたちます。はねつき用の羽子板ではなく、はじめての正月を迎える女の子のいる家へのおくりものとされています。羽子板でつく羽子(はね)が害虫を食べるトンボににていることから、わるい虫、わざわいや病気をおいはらうとされました。また、羽子板は正月の飾りにもなっています。」
(引用おわり・全ての漢字にはふりがながあり、本文は縦書きです)

さて、平成最後の師走。この本のあとがきを是非お読み下さい。

12月あとがき

すすむ世の中にふさわしい行事

(引用はじめ)
これまで、1年間の様々な行事を見てきました。日本に住んでいた先祖の人々が、工夫と努力を重ね、神やいのりを心の支えとし、さらに中国などの海外から伝わるならわしをとりいれてきた様子がわかりました。
その中で12月の行事にアエノコト、針供養、なまはげがありますが、同じような行事を他の月にする地域があることから、長い年月をかけてつたわっていく間に、それぞれの地域に合った形になったとかんがえられます。
こうしたことから、私たちの祖先は、いろいろな事柄をとりいれて生活を保ち、その地域と時代に合った行事に仕上げてきたことがわかります。
ですから、いまを生きるわたしたちは、ただ古いからではなく、先人が伝えてきた思いの重点はなにかをかんがえ、現在の生活とこれから来る未来にふさわしい行事を、自分たちの手でまもり、つくり、そしてすすめていかなければいかなくてはならないのではないでしょうか。
(引用おわり・本文は縦書きで漢字には全てふりがながあります)

『たこ』は1975年 福音館書店より「かがくのとも」として刊行され、その時の折込付録には、加古による「たこ たこ 上がれ」と題する文章がありました。前半は、幼い日の忘れ得ぬ思い出が綴られ、後半はこの科学絵本に関してのいろいろが書かれています。後半をご紹介します。

「たこ たこ 上がれ」加古里子

なんでもたこに

こんどたこの本をかかせていただきながら、いつも私の頭のすみにはこのソーシキだこがちらついていました。よっぽどこのソーシキだこをと思ったのですけれど、私は思い切ってこのソーシキだこの亡霊をふりきり、新しいグニャグニャだこを紹介することにしました。その理由はふたつありました。

その第1は、ともかくたこというひとつの形や格式があって、それにのっとっていないと上がらないのではないかとか、みんなが見上げて注目されるのにはずかしいという気がつきまとっていてーーーこれは小さな子供の方がというか、子どもでさえというか、ともかく気をつかっていることを払拭したいと考えたことです。どんな形のものでも、どんな材料のものでも、どんなにまがり、どんなに凹凸があっても、風を受けて浮ぶに足る面積があるなら、すべてのものはたこになりうることを知っていただきたいと思ったからです。

すでに、こうした考え方に立って日本でも外国でも、様々な形態と機能を持ったたこが作られています。私の今考えているのは、「骨なし糸目なしのたこ」と言うものです。それを作ってあげるには、時間の余裕がほしいところですが、残念ながらそれがつくれないまま、きっと今にどなたかがそれを先に発表されることでしょう。

さてもうひとつの理由は小さな読者にも揚力とか後退角とかの説明でなく、しかもごまかしのないたこの上がるわけを知って欲しいと考えたからです。その途中の産物として、前記した「骨なし糸目なしたこ」が出てきたわけですが、目に見えぬ空気の流れと、その濃淡や早い遅いことの差からくる上がるわけを、実現的に知ってもらういろいろな試みをこれからも心がけていきたいと考えているところです。

じっと機をうかがえ

さて最後にこのたこを読んでつくって遊んでいただく際、ひとつふたつの御注意とお願いを記しておきます。

そのひとつは、タコを作るとき、できるだけ丈夫で軽い材料を選んでいただくとよいということです。グニャグニャだこの場合、プラスチックシートは、いわゆるビニール風呂敷やトイレットペーパーの袋や壊れたプラスチックかさなどを使ってみましたが、いちばんてがるでよかったのは、プラスチックごみぶくろでした。それに骨は竹から切り出し小刀でつくっていただくのがいいのですが、もしなければ学校のそばにある文房具店や模型屋で、竹ひごを求めてください。それもないときはどうする、といわれる方がきっとおありだと思いますが、昔の子どもたちが皆そうであったように、カラカサのこわれるのをじっと何年もまちつづけていたように、そしてだれかの家の納屋にこわれたカラカサがあったときくと、子どもたちは手を変え品を変えそれらをもらうべく涙ぐましい努力を傾けたように、そうした熱意と努力が欲しいところだと思います。この熱意と努力を持ってじっと機をまっているならば、必ず竹ひごをうっている店に巡り合われることでしょうし、程良いごみぶくろをゆずってくださる方も出てくることでしょう。

今ひとつ、たこを上げる際、町の中、道路、鉄道や電線のあるところ、飛行場や文化財の建物や大木のあるところはさけて下さい。種々の事故がおこった場合、当人やその家族だけでなく、多くの人の迷惑になるからです。

さてこうして空高くて上がったたこは「飼い犬の顔は、その主人に似る」という西欧の諺のように「上がったたこの顔はその主人に似る」と私は考えています。こせこせしたり、ゆったりと上がったり、おじぎばっかりしたり、ちょっとよろめいたり、ともかくどうぞ、子どもさんといっしょにたこあげをおたのしみください。

たこ たこ 上がれ
心に 上がれ

『たこ』は1975年 福音館書店より「かがくのとも70号」として刊行され、その時の折込付録には、加古による「たこ たこ 上がれ」と題する文章がありました。前半は、幼い日の忘れ得ぬ思い出が綴られ、後半はこの科学絵本に関してのいろいろが書かれています。2回に分けてご紹介します。

「たこ たこ 上がれ」 加古里子

幼い日のソーシキだこ

私の生まれたところは北陸福井の武生と呼ぶ小さな街。うかつなことに、先月若くして逝かれたいわさきちひろさんが、その同郷の先輩だとは知らないまま、その美しい、そして厳しいこまやかな筆跡を私淑しつつ、いつでもご挨拶できると思ってとうとうお目にかかる機会を失ってしまいました。私よりも、娘たちの方が悲しんだりなげいたりして、私の世間知らずを指摘したり、かえすがえすも心残りのことでした。

その奇しくも同じ町に数年後に生まれた私にとって、わずか7年間の短い生活は、後年雪を語り、ほたるを論じ、おちあゆや山鳥の紅をあげつらうことができる唯一の私のよりどころとなりました。もしその7年間が私になかったなら、子ども時代の遊びの良さや重要さを、今ほど強く自信を持って話しかけることができなかったでしょう。その幼い日の私の思い出のひとつに小さなたこの事件(?)がありました。

私はまだお寺の幼稚園児、ひとまわりちがう兄は中学校の最上級生で医学校への受験に追われていました。その兄がある北風の吹く日、それこそどういう風の吹きまわしか、私にたこを作ってくれたのです。からかさの骨を2本使った長崎のハタだこを正方形にしたような簡単なソーシキだこでした。手作りのたこの絵も字もかいていないまっしろなたこのことを子どもたちはそう呼んでいたのです。

(下の絵は表紙にある長崎はただこ)

ところが、兄の作ってくれたソーシキだこは、奇妙に頭を左右に振りながら、すいすいととてもよく上がっていくのです。久方ぶりに兄が相手をしてくれた嬉しさと、たこの上りの良いのとに、私はたいへん大喜びで、どんどん糸をくり出しました。たこは土手を越えてひろい日野川のはるかかなたにふらふらと小さく白く上がってゆきました。ところが、たぐり出していた糸の最後が、糸巻きにしばってなかったので、あっといったときには、もうたこは川向こうにくらげみたいな格好でひらひらとおちてゆきました。涙いっぱいの私をあとに、兄は自転車に飛び乗り、村国橋を大回りして追いかけました。目をさらのようにして向こうの土手をみても、数百メートルの川向こうには兄の姿もたこの影も、いつまでたってもあらわれません。待ちくたびれた私は、ひとりとぼとぼと向こうの土手に行ったものの、やはりたこもなければ兄の自転車も見つかりませんでした。もう悲しさがいっぱいになったとき、見知らぬ若い人が、「坊や、たこをとばしたんだろ?」と私の顔をのぞきこみました。こっくりすると、ほらそこにあるよと示し土手の草に、糸の先が結んであって、白いソーシキだこがさっきと同じようにちいさく冬の田の上を泳いでいたのです。

それからひとりでたこをおろして家へかえると、さがしくたびれた兄が、どうしてあえなかったのかなあと言いつつ、私のこんがらかした糸を文句を言いながらきれいにといてくれました。

たこというとき、私にとってはこの事件がいつも心によみがえってきます。それ以来このたこは私の得意の科目のひとつとなりました。もちろん、トラをかいたりノラクロをかいたりしてソーシキだこにはしませんでしたが、この独特な頭のふり方で上がるこのたこは、私にいつも兄とのぞきこんだ若い人を思い出させてくれたものです。

7人の子どもたちが次々に楽しむおにあそび。本を読んでいるうちに、いつの間にか自分も一緒になって遊んでいる気持ちになるから不思議です。もう、おにごっこするしかない。
一見すると地味な色合いの画面ですが、そこにも仕掛けがあるようです。

この本は1999年に「かがくのとも」として刊行、その後2013年に「かがくのとも特製版」となりましたが、この度は「かがくのとも絵本」として新たに出版されました。1999年の折り込み付録「遊び世界での子どもの力」をご紹介します。

遊び世界での子どもの力 加古里子

鬼遊び鬼ごっこなどと呼ばれる遊びは、世界中の各国各民族で愛好されているので、その魅力の源を知りたくなり、日本での観察と収集を40年ほど続けてきた末、ようやく次のようなことを知りました。

日本の子供たちの鬼遊びは、大きく3つに分類できて、第1のA型は「逃げる/追う/つかまえる」という基本的な形と、その変型の約100型です。走力脚力の競技なら、その優れたものや年長児だけが楽しいだけに終わるので、いかにその能力差、体力差を埋め、鬼にも逃げる側にもうまいハンデにより拮抗(きっこう)させるか、どういう苦心が、こんなに多くの種類を生みだすこととなりました。大人のゲームにも、ときおりこうしたハンデをつけるやり方がありますが、今月号のなかの「タッチおに」や「つながりおに」のぶくちゃんのような"みそっかす"まで一緒に楽しもうというのは、子どもの世界だけの工夫です。

第2のB型は、小石・木片・なわ・ボールなどの道具を用いたり、場所やまわりの状況を利用するもので、約180型あり、今月号にでてくる「いろおに」「はしらおに」「しまおに」などがこのなかに入ります。しかし、場所を使うものでは、高所、階段、コンクリ、手すりや欄干など、子どもたちがいかに狭隘(きょうあい)、劣悪、不敵な遊び場しか与えられていないかを反映していることにも気づかされます。ごく一部の大人の遊びのため、広大な土地を芝生にしたあげく、不良債権で銀行がつぶれる期間、子供たちは文句や座りこみはおろか、ぐちさえいわずわずかな空間を利用していたのが、多数のB型に結実しています。

第3のC型は、数人のグループごとに対抗したり競いあったりする集団のもので、逃げる「どろぼう組」と、追う「警官組」のいわゆる「どろけい」や、他の遊びや遊戯と連結融合したもの約160型です。今月号の「くつとりおに」は、「ひよこまわり」と呼ばれる図形遊びと「くつかくし」が混合したもので、このほか、「花いちもんめ」など歌遊び系も含まれ、多彩です。

以上のように、子どもたちはA、B、Cの3型のなかに自分たちの得た力と意欲をそそぎ、自ら生きる喜びを示しているので、あわせて楽しんでいただければ幸いです。

この作品は、2001年4月に福音館書店「かがくとのも」として刊行されたものを今回限定出版されたものです。是非この機会にお読み下さい。

尚、2001年刊行時の折り込み付録に、以下のような著者の解説がありました。題名は「いい子時代の遊び」で、「いい」というところに傍点がついています。その種明かしは文中にあります。
(引用はじめ)

いい子時代の遊び 加古里子

いい・・子時代の遊び

私は北陸の山と川のある小さな町で生まれ、幼少時代を過ごしました。3人兄弟の末っ子でしたから、遊び仲間では一番小さい「いてもいなくてもいい・・子」のひとりでした。

そのころの年長の子は、学校が終わると、10人ほど集まって遊びます。雨が降ればどこかの納屋に入り込んだり、蹄鉄屋の軒先で、ひづめの手術(?)をのぞいたりしましたが、ほとんどはちょっとした広場か道端での外遊びでした。

就学前のいい・・子たちは、そうした兄ちゃん姉ちゃんたちの遊びに入れてもらうのがとてもうれしいことでした。この遊びの中に入れてもらうのを、この地方で「せえて」と言いましたが、そんな大それた言葉を言って入っていくのは、いい子でない年長児でないととてもできません。それでいつもドキドキして、こんど言おうか、もう一回終わったときにしようかとうろうろするのが常でした。途中から入るのではなく、はじめからいれば「自然に・・・」遊べたので、ずっと早くから皆が学校から帰るのをまっていたり、兄や姉のうしろにくっついていたはずですが、ドキドキうろうろしてなかなか「せえて」が言えなかった思いだけが強く残っています。

こうしてようやくその日の遊びの中に入った後は、どうしてこんなに楽しくて面白いことが続くのかと言う至福の時間でした。昨日と同じ鬼ごっこなのに、昨日も面白かったが、今日のほうがずっと楽しい。それも誰かが土手のチガヤを食べたりすると、たちまちおいしいチガヤさがしに夢中になると言う、変化と発展の連続、心も身も陶酔の毎日でした。

今回の『わたしもいれて!』を描くにあたって、次々発展していく遊びの様子と、それに夢中になるいい・・子やそうでないこの思いをもり込みたいと、昔のようにドキドキしながら努めてみました。見ていただければ幸いです。

(引用おわり)

今年もあと2ヶ月となってしまいました。『こどもの行事 しぜんと生活 11月のまき』のあとがきをご紹介しましょう。

七五三の行事

(引用はじめ)
江戸時代ごろから、あかちゃんは三歳になるとそれまでそっていた髪をのばしはじめて、こどもとしてあつかわれるようになり、五歳になると男女とも正装をし、七歳になると女子は帯をしめるなどしていわいました。これらの習慣がもとになって「七五三」の行事となりましたが、こどもに対する社会的な考え方がまだ定まっていなかった時代に、現在のこどもの発達や教育の立場からみて、きわめてただしい、適切な方法が行事となっていたことは、たいへんよろこばしいことです。
先祖の人たちの科学的な愛情をまなびたいとおもいます。
(引用おわり)
本文は縦書き、漢字には全てふりがながありますが、ここでは省略しています。

上の絵は『だんめんず』の最初のページの一部です。この絵本の折り込み付録にある加古の文章、「だんめんず」と「かがくの本」の後半、その2では科学の本についての加古の持論を展開します。加古の投げかけた疑問と指摘に対し、半世紀近く経た現在、私たちはどのように答えることができるでしょうか。

「だんめんず」と「かがくの本」 加古里子

疑問と批判

さて、この「だんめんず」に取り上げた内容は旧制高等学校理科甲類の連中でさえ敬遠してはばからなかったむずかしい課目の1つですし、その図学の中でも後期に初めて出てくる高度の章に関係しているものです。

したがってここで、どうして小さい子どもたちに、そんな難しい図学とか立体とかのことを教える必要があるのかという疑問を、皆さまがたはお持ちになるだろうと思います。私が育った戦中時代より世の中が大いに進んだとは言え、昔の高等学校の学課を学令以前の子どもが主な読者である「かがくのとも」に書くのは少しどうかしてやしないかという批判が起こるでしょう。小さな読者のためには、もっとそれにふさわしい題材を選ぶべきだし、教科書を見ればわかるように、子どもたちに与えるかがくの本もやはりその発達段階に応じて3才児は3才児なりに、小学1年は1年なりの題材であるべきだというご意見がきっとわき上がることだと思います。

このような疑問や意見に対し、私も大いに論じつくしいろいろとご教示をいただきたい希望をもっているのですが、ここではとりあえず次の2つの事柄を結論的に申し上げることといたします。

教科書とのちがい

まず第1の点は、小さな読者であれ、高校生向けであれ、「かがくの本」や「科学読物」は、理科の教科書とは違うものであると言うことです。

教科書は、どんなに相手の子どもがいやがろうが好きになれなかろうが、その将来にそなえ覚え、身に付け、蓄えておかなければならない事項を記載したものであり、それをもとにした応用能力の修練のため、体系的に整理集積された手引きですから、学習目的の完成のために学校や学級という場と教師と言う指導者によって補充され補完され結実されるよう配慮されている性格の書籍です。

一方「かがくの本」や「科学読物」は、ほかの読み物と同じようになんらの強制力の義務責任もおわぬまま、ただあるのは読者の好みによってえらばれ、よまれ、すてられていくものです。幼児向けのものを小学生が読んで悪いことはありませんし、中学生向けの本を小学生が熱中することが珍しいことではありません。教科書では体系的な順序が乱れたり、それへの配慮がない事は大きな欠点となりますが、「かがくの本」にあっては、考古学の方を先におもしろく読んでしまってから、あとで植物の本を読むこともあるのです。しかも原則としては親やおとなから解説してもらうことなく、子ども自身の力で読み、たのしみ、そこで完結されることを目標としている本形式の印刷物です。

以上のように教科書はそれ自体の目的と任務、特質を持っており、子どもたちの読み物とはねらいや効果、長所がはっきり違っている異質な書籍なのです。

実を言うと、私は現在の教科書をわりとよくよんでいて、大いに問題があると考えていますし、特に理科の教科書に対してはごく1部を除いて相当な批判をいただいているものです。しかし、だからといって教科書の代替を「かがくの本」ですることができませんし、そうすべきではないと思っています。既刊の私のいくつかの「かがくの本」を理科の授業に使っていただいた貴重なお手紙をたくさんいただいていますが、この事の功罪は私にあるのではなく、ひとえに熱心な現場の先生方の協力のたまものであると同時に、その根本はそうした補いを余儀なくさせている教科書制作の当事者と管理当局によって欠陥を矯正してもらわなくてはなりません。教科書はその責任と任務の中で良いものにかえてゆき、「かがくの本」はその範囲の中で1冊、1冊を完成して行かなければならないと考えます。

(辛口の文ですが『だんめんず』最後の場面は下のように甘口です)

題材は何が良いか

第2の結論は、「かがくの本」の対象となる題材は何がふさわしく、何がだめだという事はなくて、どんなにむずかしく複雑なものでも制限はないということです。幼い子供だからといって、いつも植物や昆虫だけを対象としていることはおかしいということです。子どもたちをとりまく世界はジェット機がとびかい、公害の煙がたなびき、政治や経済のあらしがテレビや父親の疲れを通じてもちこまれている生きた世界なのです。子どもたちはその中で彼らなりのせいいっぱいの感覚を働かせ、知恵をたくわえ工夫をこらしているのです。そうした子供たちの要求にこたえ、その欲求の真に求めているものに対応していくのが「こどもの本」ということになりましょう。ですから対象を規定するものはただ2つ、子どもたちのいだいている要求をみぬく目と、それを作品として結実させ、子どもたちに満足をあたえ、子どもたちの要求を次の高いものへ転化せていく作者の力以外にありません。

もし子どもたちが望み、作者に力量さえあれば、電子顕微鏡や分子や原子、DNA、さてはベトナム戦争と言うことも消して幼児の対象からはずすべきではないと私は考えます。逆に以上の原則をはずして、子どもたちが喜んでいるという皮相面だけで、スーパーマンやゴジラまがいを相変わらず追う態度や、子どもたちの要求でなくほかの要求に従うならば、性教育における「ワレメちゃん」のように決してそれは、子どもたちの発展に資することもなく、子どもたちにも支持される事はないでしょう。
* * *

限られた紙面ですし、充分意をつくす時間のないのが残念ですが、ようやく最近、わが国で子ども向けのかがくの本が数多く出版されるようになってきたことを喜ぶと同時に、いま最も欠けているのは前記した2点の指摘からおわかりのように、まだまだ科学読物に対する評論の水準がきわめて低く遅れていると言う事実です。それを高めるのはすぐれた専門家を輩出させてゆく読者一般のかしこい知恵以外には無いのです。

『だんめんず』(福音館書店)が1973年に「かがくのとも」として刊行された時の折り込み付録には、「だんめんず」と「かがくの本」と題する加古里子の長い文章が掲載されていました。珍しく自分の事、成績のことにも触れてていることから、断面図など図面を書くことがよほど好きだったことがうかがい知れます。2回に分けてご紹介します。

「だんめんず」と「かがくの本」 加古里子

図学の試験

私は戦争中、旧制の高等学校の理科甲類に在学していました。理科甲類というのは、将来工学や理学を専攻する者のクラスで、理乙は医学や農学系のクラスでした。だから私たちのざれ歌に「理甲の頭をたたいてみれば、サイン、コサインの音がする」とか「理乙、理乙といばるな理乙、末はタケノコ、ヒトゴロシ」というのがあったわけです。

その理科甲類の生徒は、図学という学科をしなければなりませんでした。用器画とか幾何の学課をひろげたようなもので、将来機械とか建築の仕事に従事して、製図をしたり、図面をよみとったりするための必要な課目でしたが、何しろ定規できっちり線をひいたり、コンパスをいじったりして面倒なものですから「図学(ドロウ)はドロン」といって、いつの間にか教室を逃げ出したり、敬遠するのが普通でした。

ところがおかしなことに、わたしこのドロウが大好きで、最も得意な学科の1つでした。その理由としては、数学をはじめもろもろの学課がほとんど抽象的でありすぎる中で、最も明瞭具体的であったからかも知れませんし、絵画などの学課がない当時の高等学校の課目の中で、最も「芸術的なかおり」があったゆえかも知れません。

そんなわけで明日は図学の試験があるという前夜、寮の級友たちは徹夜でコンパスなどをふりまわしているなかを、私1人さっさとねてしまっていました。しかし、翌朝の私は、定規やコンパスのよごれをきれいにふきとり、手やゆびをよく洗って教室に入りました。そして答案をかく際も、下の机の小穴や木の目で、図面にいらざるよごれや濃淡がつかないよう配慮して仕上げることに注意を注いでいました。私の場合、大げさに言うなら、問題の正解に腐心している級友をしり目に、その段階よりも1段階上の、どうしたら見やすい美しい答案図に仕上がるかを考え、それを目標にしていたのでした。したがってほとんど図学の試験は満点に近い成績をとりつづけていたと覚えています。

ザンコク物語

この図学の時間の中で、私が1番興味を持ったのは「透視図法」と「切断」の章のところでした。透視図というのは線路が遠くになるにしたがってちいさくなって行き、電柱の高さがだんだん短くなって見える様子を幾何学的に図表化する方法ですから、まるで絵画と同じでしたし、若き日のダ・ビンチが研究していたというものですから、もう夢中になってしまいました。一方の切断ということは、ある立体とある面が交差したり、よこぎった場合、両方に属する部分の形や位置をえがく方法です。普通は立体と平面との場合ですが、実際にはらせん階段がまるいホールの壁につながる箇所など、立体と曲面の場合も案外あるものです。当時の私は金属コンンクリート製のものを、まるで大根かキュウリのほうに、スッパスッパきることのおもしろさつられて、ノートのはじに難攻不落の大要塞の断面図をえがいたり、肩から腹にかけてけさがけにきったなまなましい人体断面図を作ったりしていました。(少々若げのいたりでザンコク趣味があったのでしょう)

「かがくのとも」3月号「だんめんず」は、こうした私の高等学校以来の図学的考えや試みがつみ重なってでき上がったものです。学者や本によって截断面(せつだんめん)、截面、切面、切断面、截切面などいろいろの名称がつかわれていますが、ここでは一番普遍的な断面及び断面図という名称を使わせていただくことにいたしました。