編集室より

作品によせて

これまでにもご紹介してきた「かこさとしの食べごと大発見」シリーズですが、今回は第4巻「うれしいフライ 天ぷら天下」をのぞいてみましょう。

「からすのてんぷらやさん」(2014年偕成社)で天ぷらの秘伝(?)を披露した加古ですが、調理には温度と時間、具材の濃度等が大切な点は化学実験と共通ですから、かつて化学会社の研究室で働いていた著者にとってはお手の物かもしれません。

上の絵は、前見返しにある図で、その右にある〈この本のねらい〉には次のように書かれています。

あげもののヒミツをこめた本

(引用はじめ)
てんぷらやフライなど、あげものの料理はとてもおいしのですが、これほど調理法がうるさくヒケツや秘伝が渦まいているものはありません。 油の種類、成分、まぜ方、濃度にはじまり、ころものつくり方、つけ方、落とし方、入れ方はもちろん、下にひく紙にいたるまで、いちいち理由や自慢や相伝が入り交じり、はては一般家庭のあげものを、「油煮のたぐい」とか「パン粉の油こがし」と嘲笑する専門家がいます。
けれどもそんな油煮天ぷらでも、食べ残しパン屑のフライでも、忘れがたくおいしかった事実があります。どうした事か今までこのヒミツは語られてきませんでした。そのヒミツを発見し追求したのがこの本です。どうぞよろしくご活用ください。
(引用おわり)

さていよいよ本のページをめくると扉には 次のような見出しで説明が続きます。(この部分を含め本文の漢字にはかながふってあります。)

あげものは様変わりの世界

○まず色が変わります
油であげると、こんがり、きれいなきつね色や黄金色(こがねいろ)に変わります。本当の「金」(きん)になったらどうしましょう!
(引用はじめ)
○様変わり
小麦粉のころもやパン粉のドレスにつつまれて、すてきなよそおいに変わります。
○歯ざわり
ひと口かじったときのハリハリ、パリパリのころもの下からふっくらやわらかい、いもや白い魚があらわれます。
○味変わり
油と、こうばしいころもと中の材料のおいしさがまざりあって、すてきな味となります。
(引用おわり)

よだれの出てきそうな前置きがあって、いよいよ天ぷらにする魚の下ごしらえ、ころものつくり方、いか、エビ、かき、豚肉、鶏肉、野菜を材料に天ぷら、フライ、素揚げ、唐揚げ。
コロッケ、ピロシキ、ポテトチップス、大学芋まで一気に面白、楽しいキャラクターによって紹介されます。

最後には大人向けの(振仮名なしの)次のような文で、本文はおわりとなります。

危険な水と油、火と油の戦い

(引用はじめ)
熱い油の中に揚げる材料をいれるとジュウジュウ、パチパチするのは、材料の水を油が追い出し、出された水がとびはね、油も一緒にとびはねているので、小さい子が顔を近づけるのは、とても危険です。

また、油を火で熱してるのは、ちょっとまちがえると「火に油をそそぐ」ことになりかねません。事実、揚げものをしているときに電話がなって、話しこんでいる間に火事になる率がとても高いことがはっきりしています。
化学実験では、安全メガネと火災対応が実験者の常識であるように、台所という高度の実験室で油を使うおいしい反応をおこなうのは、この水と油、火と油の危険防止を、ごくあたりまえの事としてしっかり守っていただくようお願いして、この巻の終わりといたします。
(引用おわり)

そしてさらに次のような大人に向けたメッセージがあります。

水を流しても油を長さぬこと

「牛や豚なら簡単で完全にできるが一番だめなのが人間なんだ」と友人の下水道学者が嘆いたことがあります。動物はけっして異物をながしたり、混入したりしないが、どんなに警告しても、防止策をとっても、とんでもないものを密かに流したり、無理に投入するのが人間で、技術以前のところでホトホト困ってしまうとのことです。揚げ物の場合、油は食用なのでやがて分解されますが、できるだけ流さないようにしたいものです。特に皿や食器をあらう洗剤は、河川や湖や海を汚染してしまいます。
一番よいのは、紙で油を拭きとって、水は流しても油は川や海へ流さないことです。おいしいものをつくったり、食べたりする楽しさは、後始末まできちんと気持ちよくすることで、まっとうされることを、どうぞご指導ください。それは、あげもの食事における大切な発見のひとつなのですから。

コウモリ

投稿日時 2017/07/16

雨傘や日傘が出番の季節ですが、加古が子どものころは傘のことを"こうもりがさ"、あるいは"こうもり"と呼んでいました。"こうもり"と聞いて傘だとわかる方は、今ではずいぶん少ないかもしれません。

番傘や唐傘に対して洋傘のことを指して言ったようですが、半世紀ほど前にようやくナイロン傘が一般的になるまでは、"こうもり"は布製で大雨が降ると重たく、雫がたれてきた記憶があります。

その時代は、夕方薄暗くなるとコウモリが飛び回ったものです。「こどものカレンダー8月のまき」(1975年偕成社)には、[こうもりのわらべうた]が、6つほど紹介されています。(下)こうもりに草履やわらを投げ上げてそれにつられて降りてくるのを捕まえようとして唄ったものだそうです。

「コウモリは昼、ほら穴や木の穴などにぶら下がっていますが、夜、人には聞こえない超音波をだして、反射してくる音波を耳で受けてとぶので、ぶつからずに虫をすばやくつかまえられるのです。」と左ページ左下[おうちのかたへ]というコーナーで説明されています。

「ことばのべんきょう くまちゃんの1年」(1971年福音館書店)には、お月見をする夜空にこうもりがとんでいます。

「たこ」(1975年福音館書店)の最後の場面、いろいろな種類のたこが空を舞うところに、こうもりだこが上がっています。子供達にコウモリが身近な存在だったあかしでしょう。

下の絵は、「地球」(1975年福音館書店)春の場面、カルスト地形を流れる谷川脇にある洞窟にいる、きくがしらこうもり、ゆびながこうもりが描かれています。

冬ごもりのコウモリは「こどもの行事 しぜんと生活 11月のまき」(2012年小峰書店)にあります。

コウモリの出す超音波のことがありましたが、エックス線で見たコウモリもあります。

下の画面の右上です。
これは「かこさとし あそびの大星雲7 くしゃみやおへそのあそび」(1992年農文協)の[骨までみえる]という項目にある絵で「どんなことをしているのかわかりますか?」とあります。

答えは次の絵にある通り。
「やっぱり このすがたのほうがたのしくて いいですね。」ですって⁉︎

楽しいといえば、コウモリが出てくる愉快なお話しに「とんぼのうんどうかい」(1972年偕成社)があります。

とんぼたちを捕まえて袋に入れた「ぎゃんぐこうもりの かくいどりは」と下の絵の本文にありますが、かくいどりとは蚊喰い鳥の意味でコウモリの別名、夏の季語だそうです。この場面から物語は一転するのですが、その痛快な場面は越前市ふるさと絵本館で2017年6月29日から8月30日まで展示していますので機会があれば是非ご覧下さい。

そして、だるまちゃんシリーズにもコウモリが登場します。ほらあなにに住むやまんめちゃんとやまんばあちゃんが「ごろ」と呼ぶコウモリが「だるまちゃんとやまんめちゃん」(2006年福音館書店)でご覧のように活躍します。

ところで、皆さんのご近所ではコウモリを見かけますか。

カエル

投稿日時 2017/06/08

〽︎カエルがなくから帰ろ

こんなことを言いながら家に帰る子どもの姿は、もうずっと遠い昔のことになってしまったようです。雨の季節に、カエルを加古作品の中から探してみることにします。

デビュー作「だむのおじさんたち」(1959年福音館書店)では、カエルも動物たちと一緒におじさんのお手伝いです。大規模なダム工事も、みじかな石運びだったら小さなお子さんにも理解できます。科学絵本でありながらこういう描き方をするのが加古里子です。

「わっしょいわっしょい ぶんぶんぶん」(1973年偕成社)では表紙をはじめ様々な局面で小さなカエルたちが出てきます。(上)


「おたまじゃくしの101ちゃん」(1973年)と続編の「おたまじゃくしのしょうがっこう」(2014年いずれも偕成社)はおたまじゃくしたちのお母さん、そしてお父さんも登場して大活躍です。

(下は「おたまじゃくしょのしょうがっこう」たいいくのじかん)

カエルしか登場しないのは、「うたのすきなかえるくん」(1977年PHP)。若い頃から演劇に興味があった加古だけに、この物語はまるで舞台で演じられることを想定して書かれたような展開の作品です。

上にご覧いただいているのは、「こどものカレンダー6月のまき」(1975年偕成社)の表紙です。この本の6月12日は、「かえるづくし」(下)で言葉あそびの面白さが絵によって倍増されています。

字がご覧になりにくいと思いますので右ページ上から下の順に列記します。

かんがえる、とりかえる、むかえる、ひっくりかえる、ふりかえる、みちがえる、うちへかえる

以前、美しい前見返しとしてご紹介した「あめのひのおはなし」(1997年小峰書店)は小さなお子さん向けの物語です。登場人物を中心としたすっきり画面にもかかわらず、細かい気配りがされた小道具が伏線として効果的に配されている点は見逃せません。カエルもその一つで、加古らしさ溢れるおはなしの表紙はご覧の通りです。

「こどもの行事 しぜんと生活 6月のまき」(2012年 小峰書店)にあるのは[いろいろな指あそび]で30ページには、
「人の手とゆびはすばらしいうごきをします。手や指をおもったとおりにうごかすことができるよう、手や指をつかうたのしいあそびをしてみましょう。」
とあり、指をいろいろ組み合わせて[ひねしょうが]、[リス]、[キツネのめがね]そして[カエル]などを作る手順が図解されてます。指を動かし口を開けしめさせてカエルの鳴き真似ごっこも楽しそうです。

カエルといえば、泳ぎの名手。科学絵本をのぞくと、「じょうずになろう およぐこと」(1981年評論社)では、バクテリア、いか、へび、アヒル、サカナ、イルカ、クジラとともにカエルの泳ぎ方が図入りで説明されています。

そしてもう一つの特徴はその跳躍力。「じょうずになろう とぶこと」(1982年評論社)によるとカエルは自分のからだの40倍の距離、12倍の高さまでとぶことができます。これは驚異的な跳躍力をもつノミを除き、他の動物や昆虫に比べ非常に優れた能力といえます。

「地球」(1975年福音館書店)水田の場面(下の絵)には、「つちがえる」「とのさまがえる」が見えます。こんな里山の風景は「出発進行!里山トロッコ列車」(2016年偕成社)の紫陽花咲く水田とも共通し、心安らぐ風景です。
同書では房総のカエルの種類もしっかり絵で紹介していますが、専門家によると他では聞くことが難しくなってしまったカエルの鳴き声が聞こえるそうです。

なんだか、カエルの大合唱が聞きたくなってきました。おしまい。

[かこさとし からだとこころのえほん]という10冊シリーズが農文協から出版されています。初版は1998年ですから20年近く前のことですが、現在でもお子さんはじめご家族で読んでいただきたいテーマばかりです。体の仕組みや働きだけではなく、脳や神経、心の持ち方や大げさな言い方に聞こえますが、人間としての生き方のヒントになるようなことが、平易な文章ですべてひらがなで書かれています。

このシリーズによせて、次のような著者の言葉がカバーには記されています。
(引用はじめ)
なぜ、人間は歩いたり話したりできるのだろう。なぜ嬉しくなったり悲しくなったりするのだろう。子どもの素朴な疑問と悩みを通して、最も身近な存在である自分自身の体と心について、子供の目で見てみつめていく絵本です。

子どもは大人と同じ身体的機能や感情を持ちながら、伝達能力がつたないばかりに行動や感情表現の真意を大人に理解されないことが多いのではないか。

このシリーズは、子どものための絵本であるとともに、子どもから大人へのメッセージでもあります。
(引用おわり)

このシリーズでは、第2巻「びょうきじまん やまいくらべ」と第5巻「おとうさんのおっぱい なぜあるの」(上の写真)のみ文・画ともにかこさとしが担当していますが、他の巻では文のみ、かこです。巻末には綴じ込み付録がついています。

第1巻「わたしがねむり ねていたとき」(1998年 農文協 文・かこさとし 絵・栗原徹)の冒頭にある〈この本のねらい〉をご紹介します。

この本のねらい かこさとし

(引用はじめ)
誕生から死に至るまでの人間の生活時間を分類すると、睡眠に費やされる部分が大きいことに気づきます。「長い生涯」とか「働き続けた一生」であっても、「酔生夢死」とか「あとの半年位寝て暮らす」とか言われるように、人間の生きている実態上、大きな部分を「ねむり」が占めている訳です。

逆に言えば「ねている時」は「目覚めている時」の附属物ではなく、「生きていること」の重要な要素であり、さめている時間帯と共に「生きていること」を分かち合っている、とても大事な時なのだということを、「睡眠」は生きる上でなくてはならぬ、積極的な大事な意味と効用・役目を持っていることを、知っていただきたいのがこの本の願いです。そのねむりを充分とることによって、私たちの体も心も、生き続けることができることを、子どもたちに伝えたいと願っています。
(引用おわり)

むし歯予防

投稿日時 2017/05/24

むし歯は今から半世紀ほど前には子どもの大問題でした。

(1928年から1938年までは6月4日はむし歯予防デーとよんでいましたが、現在では6月4日から10日を「歯の健康週間」としているそうです。)

そこで生まれたのが以下のような絵本や紙芝居です。
「はははのはなし」(1970年 福音館書店)
「むしばミュータンスのぼうけん」(1976年童心社)
「むしばちゃんなかよしだあれ」(1976年而至歯科工業・1980年フレーベル館)
「6がつ6ちゃんはっはっは」(1978年童心社・紙芝居)
「ぼくのハはもうおとな」(1980年フレーベル館)
「むしばになったらどうしよう」(1981年フレーベル館)

この問題の深刻さをうかがえるようなあとがきが、「むしばミュータンスのぼうけん」にありますので、ご紹介します。

(引用はじめ)
現在、日本の子どもは、98%がむしばにかかり、平均9本のむしばを持っているという事実は、驚きと悲しみと怒りを私に与えます。
砂糖業者や菓子メーカーやテレビのコマーシャルや、なおしてくれぬ歯科医がわるいという声もききます。

確かに、それにも問題がありますが、こんなにも多くのむしば子にしてしまった兇悪無残な犯人は、極悪非道な悪者はーーーまぎれもなく大人、特にその子の親だということです。

文字どおり「甘やかし」、「アメをなめさせた」方々に反省を求めつつ、この本をおくります。私は、ひじょうに残念な気持ちでいっぱいなのです。
(引用おわり)

このあとがきが記されて40年を経た現在、子どもたちの口内の状況はどうなっているのでしょうか。
下は「むしばちゃんのなかよしだあれ」の前扉

その「むしばちゃんのなかよし だあれ」のあとがきもご紹介します。これは小さい読者のために全部ひらがなで書かれています。

(引用はじめ)
この ほんは にっぽんじゅうの こども みんなが むしばのない つよい からだの かしこいこになってほしいと おもって かいたものです。 なかに むずかしい ことばがあったら おうちの ひとや おとなの ひとに おしえてもらってくださいね。 かこ・さとし
(引用おわり)

天狗(てんぐ)とてんぐちゃん

天狗という名前は、やはりもとは印度に発していて、ヒンズー教において、燃える隕石(いんせき)流星が化した、赤いくちばし・緑顔・腕・脚(あし)・青いつばさ・尾をもつ半人半鳥の姿とされ、それらが中国に渡り有翼長嘴(ゆうよくちょうし)の妖怪獣の名とされました。

しかし日本においては、民間伝承山霊・木霊・山鬼などとよぶ深山の精霊を、動物または人間の形をかりて象徴化したものを「てんぐ」とよび、本来は印度中国のものと同名異体であるとされています。

日本には信濃戸隠、遠江秋葉、上野榛名、出羽羽黒山などをねじろに全国各地に四十八天狗がおり、その代表的なものは山城愛宕山太郎坊、近江比良山次郎坊、信濃飯綱三郎坊、大和大峯善鬼坊、讃岐白峯相模坊、山城鞍馬僧正坊、相模大山伯耆坊、豊前彦山豊前坊の八天狗といわれていました。

しかし、「てんぐ」は日本の農民の杣人(そまびと)たちが、山霊に対する畏敬の念から発し、災厄・山なり・神かくし・神光・妖火など威術を行う者、そして神にたいしては眷属(けんぞく)、正に対しては邪の存在として考えていたにかかわらず、大天狗とよぶ頭目と家来の木葉(このは)天狗に分かれているとか、前者は白髪赤顔長鼻僧服で、後者は鳥頭短翼山伏姿で、白狼とか烏(からす)天狗という俗名があったり、一本歯をはいたり、すもうずきだったりきわめて人間くさい性格風体にしあげています。

このように「天狗」から「てんぐ」となると、充分民族化して、非常にしたしみのある、時にはひょうきんでにくめない妖怪(?)となっていることに気づきます。

私はそうした「てんぐ」の来歴、性格、そしてそこにこめられた民衆の考えをもとにして、群馬県沼田の迦葉山山椒天狗、福島久之浜天狗などを参考にして、いばりん坊でかわいい「てんぐ」ちゃんに登場してもらいました。

(下は「だるまちゃんとてんぐちゃん」後扉)

民話とだるまちゃんたち

さてこうして皆様におめにかかるようになった「だるまちゃんてんぐちゃん」を構成するにあたって私は前にのべたように「民話」に対する心構えを旨としました。

今日、民話に対するすぐれた論がすでにいくつか提出されていますが、それらの論考と実際の再話、あるいは作品との間に、きわめて大きなへだたりがあるようにおもえます。

その詳しい論述は別の機会にゆずることとして、私は次の二点を特に民話に対する態度の中で重要なことと考えます。

① 話が 古人から現代まで、一地方から他の所まで伝承伝播(でんぱ)されていったのは何なのか。話の真髄、主題、根幹は何であるのかを明確単的に把握(はあく)提示すること

② 話を包み、生命をあたえる表現、発想言いまわしのすみずみにまで、基本的態度の肉づけをもって花をさかせ、そうした細かな叙述技術結晶として、主題が貫かれているという相互交絡作用によって、作品を成立させることーーー

説話としての民話が、形として物として結晶したのが伝承郷土玩具ということがいえましょう。私は郷土玩具の主人公たちの活躍の場を求めたとき、基本的にはこの民話に対する基本姿勢をもって対処しました。

かつて私は「マトリョーシカちゃん」と題する絵物語を訳したことがあります。ベクトローワ文、ベロポリスキー画のこの作品は、ソ連というよりロシアに伝わる郷土玩具たちを主人公にしたたのしい美しい絵物語でした。私は作者の郷土玩具に対する愛情と態度、そしてその巧みで一分のすきのない構成を学ぶことができました。私は画面の色彩感覚と画面処理のみごとなこと、そしてたった十二場面の中に緩急の流れと、作品主題とで美しいおりものを仕上げる手法をしることができました。

前述した基本姿勢と、このとき学んだ示唆(しさ)が絵本「だるまちゃんとてんぐちゃん」をささえる力となったこと、そして「だるまちゃん」「てんぐちゃん」のほかにもたくさん皆様と仲よしになりたがっている主人公たちがいることをご報告し、この次「だるまちゃん」たちがどんな活躍をするか、皆様といっしょにたのしくまっていたいとおもいます。
(引用おわり)

1967年、 福音館書店の月刊絵本「こどものとも131号」として誕生した「だるまちゃんてんぐちゃん」は、2017年の今年50周年を迎えました。そして「こどものとも」は創刊60年を迎え、この間多くの名作を輩出しています。

「だるまちゃんとてんぐちゃん」が「こどものとも」として刊行された折には、「絵本のたのしみ」と題するB5サイズ16ページの小冊子(上の写真)が付いており、著者による作品解説が掲載されていました。ここでは2回に分けてご紹介します。

尚、本文は縦書き、著者によるふりがなのみ( )にいれて表記しておきます。また郷土玩具など内容に関わり添えられているモノクロ写真は省きます。

伝承郷土玩具(でんしょうきょうどがんぐ)

(引用はじめ)
日本全国には、その土地にふさわしいいわゆる伝承郷土玩具の数々が散在しています。

それらは、木の実が用いられたり、貝がらが組みあわされたり、石や土や紙や竹、ときにわらやまゆなど、その土地にふさわしい素材でつくられています。

また、朱や黄や墨などの色彩やあやどり、こけし(傍点アリ)や八幡駒にみられる形態の簡潔性と様式化、そして巧みに工夫された機構とカラクリなどの結晶体としての郷土玩具は、幼童の手あそびのみでなく、芸術品として風韻とかおりをそなえています。

その上内容は、祭礼の供物であったり、災厄(さいやく)の守りであったり、ふるい伝説・にぎやかな行事・ひなびた風俗を背景として、家運長寿・子孫繁栄・邪気病疫よけなど、働く農民のかなしいいのりがこめられています。

このような郷土玩具も、ちかごろ都会地ではいながら各地のものが手にはいるようになり物産展が催されて人気を集めているようですが、私はお座敷収集の対象や、観光ブームの変種として郷土玩具に興味をもつことをあまり好んでいません。

民話がそうであるように、私は郷土玩具の中から、民族心を知り、民族のねがいやくるしみをくみとり、民族のよろこびに昇華する道をこそみつけたいと、かれこれ十六年ほど前から郷土玩具や土俗玩具にしたしんできました。

その郷土玩具のなかの代表者たちーーーとら・きつね・きじ・うま・うさぎ・たか・たい・しか・さる・ふぐ・しし・うし・だいこく・でこ・えびす・天神・ぼっこ・あねさま・かっぱ・ねこ・おに・てんぐ・うずら・龍・ねずみ・だるま・くじら・なまず・へび・せみ・くま・ばけもの・ふくろう・入道などーーーの性格と活躍の場を求めて、いろいろな作品を試作し、組み立ててきました。こうしてできたもののひとつが、絵本「だるまちゃんとてんぐちゃん」です。

達磨(だるま)とだるまちゃん

郷土玩具の中で、とくにだるまは、種類と変化にとんでいます。それらは大きくわけて、「起き上がり小法師(こぼし)」系のもの(鳥取倉吉だるま、金沢八幡起き上がり、新潟水原三角だるまなど)、子宝きがんの「ひめだるま」系のもの(福島高野起き姫だるま、愛媛松山女だるまなど、)およびだるま市にみられる「眼(め)なしだるま系(群馬豊岡福だるま、神奈川川崎大師だるまなど)の三つに分類されます。

だるまはもちろん禅宗の始祖として知られていう高僧菩薩達磨に模し、ちなんでつくられたものです。達磨は南印度香至国王の第三子として生まれ、大乗禅宗をおさめ、梁代武帝の頃(520年ごろ)中国に渡りましたが、思うところあって 嵩山岩窟で九年間、座禅をくみ道を求めました。その間洛陽の僧神光が教えを求めて寒風大雪の中で立ちつくし、臂(ひじ)を断ち誠をあらわし、ついに弟子として慧可の名をもらったという有名な故事が残っています。

この面壁解脱の精進と不屈一徹の信念とに海を越えたわが国でも、語りつぎ伝えあう中で、多くの尊崇と敬慕が集められるとともに、民衆の間では、その達磨座禅黙思の様相を、より近い親しみと愛情をもって造形象徴化しできたのが「だるま」です。

ですから「だるま」は印度中国の「達磨」を祖として、日本風土の中で形づくられたといってもよいと考えます。ユーモラスな型や大きな目、ふといまゆ、こいひげ、そして時にはち巻や払子(ほっす)をもたす中に、達磨につぃする民族的敬愛がこめられています。

絵本にでてくる「だるまちゃん」は、こうした民族感情を底にして、本来あって、かくされている手足をあらわし、活躍させるとともに、山梨甲府子持だるま子だるまの顔のように、ちいさくてもひげのあるーーー甘えん坊でがんばりやのーーーいってみれば読者児童の変身をそこ求めました。
(引用おわり)

後編に続きます。上は「だるまちゃんとてんぐちゃん」前扉。

「じょうずになげられますか」

この本の最初の小見出しです。本文によれば「にんげんのように じょうずにものをなげることのできる どうぶつは、ほかにはいないのです。」

確かにそうです。そんな当たり前の事も改めて考えてみると、人間が手を自由に使えるようになったことの重大さを知るきっかけにもなります。
この本の小見出しの続きをあげてみます。
「あそびの なかの なげること」
「くらしの なかの なげること」
そして、「なげる どうさの はったつ」「なげることの じょうずへた」が図解され「なげる れんしゅう」「ボールのとりかた」「なげる ちから だめし」では年齢に応じた統計が示され「スポーツの なかの なげること」「なげるときのちゅうい」「おんなのこも なげてみよう」「とおくになげてみよう」という構成です。

下の写真は、「とおくになげてみよう」の挿絵(一部)です。

項目だけ見ただけでも役立ちそうな内容であることがわかりますが、さらに専門家からの興味深いアドバイスも巻末にあります。絵はかこさとしですから分かり易く、ユーモラスな細かい挿絵が豊富で絵を見ているだけでも楽しくなります。

投力が落ちているとの調査結果もあるようですが、人間だけに与えられた手の自在な動きを見直し「じょうずになろう なげること」を実践していただければと思います。

清明(せいめい)

投稿日時 2017/04/01

「こどもの行事 しぜんと生活 4月のまき」(2012年小峰書店)によると、清明(せいめい)とは二十四節気のひとつで春分から十五日目にあたることのことです。今年は4月4日だそうです。

「このころは、きよらか(清らか)でさわやか、そしてあかるい(明るい)気候となることから、この名がつきました。」(本文では漢字に全てふりがながあります)

元々は中国の野山に出かけたり先祖のお墓参りにゆく慣わしが、沖縄に伝わったと説明が続きます。

中国・宋代の清明祭を描いた名画「清明上河図(北京故宮博物館蔵)は2012年に日本でも公開されましたのでご記憶にある方もいらっしゃることでしょう。名画故に中国でも多くの模写作品があるそうですが、実は加古もこの絵を模写し本の中で紹介しています。下の写真をご覧ください。

「万里の長城」((2013年福音館書店)[18 五代十国と宋時代の文化と技術]の項で1ページ半の幅で描き、以下のような説明があります。
(引用はじめ)
首都・開封活気あふれる早春の様子をえがいた「清明上河図」(張択端画)は、名画とされ、多くの画家に影響をあたえた。
(引用おわり)
(本文の漢字には全てふりがながあります。また、人名漢字は日本で使われる漢字を使用しました)

往来の騒めきや船をこぐ音が聞こえてくるような絵、加古も影響を受けたに違いありません。「かわ」(1962年福音館書店)制作の下敷きになっているようにさえ思えてくるのは気のせいでしょうか。

さくら

投稿日時 2017/03/16

梅、桃、桜と花は主役を変えて季節がすすみ、さくら前線が話題になる候になりました。加古作品の中でさくらを巡ることにしましょう。

このサイトのトップページ写真で次々と出てくる絵の最後は、「こどものカレンダー4月のまき」(偕成社1975年・写真上)の表紙に使われたもので、背景の桜色に花びらは見返しです。さくらについては下のように、幸せ溢れる女の子とともに紹介しています。

「こどもの行事 しぜんと生活 4月のまき」(2012年小峰書店・写真上)では、ベニシダレサクラの下、幸せいっぱいの面々。サクラ前線については、この本(写真下)や「だるまちゃんしんぶん (春)」(2016年福音館書店)でもお花見のニュースと合わせて描かれています。

次の表紙のサクラですが、この意味はやや違います。

「ドイツ人に敬愛された医師 肥沼信次」(2003年 瑞雲舎 /文=舘沢貢次、絵=加古里子)は、医学研究のため渡ったドイツで世界大戦が勃発、伝染病医療センターで献身的な活動をし自らも病に倒れ1946年3月8日、35歳で帰らぬ人となりました。彼の最後の言葉は「桜をもう一度見たかった。みんなに桜を見せてあげたかった。」

1993年、肥沼の弟によってドイツの地に植えられた桜の苗木は成長し市庁舎の庭を飾っています。優れた医師であり人格者であり後世も忘れずにいてほしい「肥沼がもう一度見たいと願った日本の桜の花」と裏表紙には書き添えられています。

科学絵本にもサクラは欠かせません。季節の変化、時間の経過を示す格好のモチーフだからです。「地球」( 1975年福音館書店・下の写真)では満開のサクラの下で一休みしながら子どもと話す声が聞こえてくるような穏やかな光景。加古里子の科学絵本には、こういった要素も地中の根とともに描き込めれているのが特徴です。

「地球」では1冊の中で同じ季節が2回つまり2年経過する作りになっています。これは著者による解説の言葉を引用すれば、「地球にすむいきものたちを、仲間としてえがきたかったため、どうしても四季を一回めぐるだけではもり込めな」かったからです。

「出発進行!里山トロッコ列車」(2016年偕成社)では、小湊鉄道といえばここ、というくらい有名な菜の花と桜の共演場面が本にも登場します。(下の写真)

「地下鉄ができるまで」(1987年 福音館書店)では、桜の頃の地下鉄工事の起工式(下の写真)から始まり梅雨や入道雲の青い空、街路が黄色く色づき雪が舞い、やがて再び花咲く開通式と言葉ではなく場面に添えられた風景で時間の流れを示しています。

満開の桜ではなくあえて散りゆく花びらのみを描く場合もあります。

下の写真は「おおきいちょうちんちいさいちょうちん」(1976年福音館書店)の冒頭です。この絵本は、副題に、ゆかいな「反対」言葉とあるように、対比するものを提示することでその概念を子どもたちにわかってもらおうという科学絵本ですが、加古独特のユーモア満載で大人が見ても満足できる絵本です。

見たことがあるような大きい提灯に書かれている文字は科学絵本の科、劇画風の絵が多いのですが、長い・短い、重い・軽い、上・下、多い・少ない、開ける・閉める、中・外、のびる・ちぢむ、暗い・明るい(本文では全てひらがな)に提灯がでてきて、桜吹雪は日本的な味を出す小道具といったところでしょうか。

「ダムのおじさんたち」(1959年福音館書店)の最後の場面、ダムが完成しおじさんの笑顔に舞う桜の花びら。おじさんたちの晴れやかな気持ちが一層伝わってきます。

たくさんの桜を見てきましたが、最後に「まさかりどんがさあたいへん」(1996年小峰書店)の後ろ扉に描かれている絵をご覧下さい。このロボットのドレスの模様は桜の花びら・・・
著者のどんな気持ちが投影されていると皆さんはお考えになられるでしょうか。文と絵が同一人であるからこそできるこのような表現の妙を味わっていただけたらと思います。