編集室より

かこさとしのペンネームの「かこ」はあいうえお順の前の方の音で選んだとーその1ーでお伝えしました。この絵はその「かこ」がひらがな、かたかなで書いてある本の前扉です。何の本だかおわかりですか。左ページの紙、右ページの図形がヒントで、答えは『よわいかみ つよいかたち』(1968年 童心社)です。一見弱いように見える紙もなかなかどうして強いのだ、ということが自分で確かめられる科学の入り口にぴったりの絵本で、少しのかたかな以外は全部ひらがなで書かれています。

さて、前回ご紹介した『ありちゃんあいうえお』(2016年講談社)の後半は、かこが孫である二人の男の子を間近に見ながら創作した詩です。孫の名前にちなんだ言葉を選んだり、小さな子どもの様子を再現してほとんどひらがなで書かれていますので、お子さんから読めるやさしいリズム感ある言葉の連なりです。

『こどものカレンダー12月のまき』(1975年偕成社)には、「わがはいは、ねこであるぞよ。それでは おもしろい おいうえお ものがたりを おしえよう。」と前置きがあり、猫が語るあいうえお物語が始まります。それでは、お楽しみ下さい。

あいうえお ものがたり

(引用はじめ)
むかし、
あいうえお王という わるい おうさまが いました。
かきくけ公という わるい だいじんと、
さしすせ僧という 悪いぼうさんと、
たちつて島(とう)という しまに いって、
なにぬね野という のはらにある
はひふへ法という きそくで、とっては いけない
まみむめ藻というもを、とっていました。
やいゆえ世という よのなかに なって、 わるい 人は
らりるれ牢という ろうやに いれられて、
わいうえ王という よい おうさまにかわりました とさ。
ばんざい ばんざい。
(引用おわり)

この小さな物語の後には[おうちのかたへ]として「あいうえおを棒暗記させるのでは、子どもにとって苦痛になります。楽しみながら覚えるように」とかこのメッセージです。

いろはを覚えるには、『だるまちゃんすごろく』(2016年福音館書店・下)がぴったりです。このすごろくは両面遊べて赤い縁の「おくにおもちゃのいろはすごろく」は、いろは順にすごろくのますを進みます。いぬはりこ(とうきょう)→ろっかくだこ(にいがた)→はとぐるま(ながの)といった具合でそれぞれに郷土玩具の絵がついています。

青い縁の「にっぽんぜんこく おくにおもちゃめぐり」にも1つ1つのますに郷土玩具が描かれていて「ふりだし」の次はほっかいどう→あおもり→いわてと日本列島の北から沖縄まで巡り「あがり」となります。ちなみに北海道は【きぼりぐま】青森は【やわたごま】岩手は【しかおどり】の絵です。

かこの作品があいうえおやいろはを覚えるお役に立てたら幸いです。

尚、このすごろくの複製原画は現在開催中の愛媛県歴史文化博物館「かこさとしの絵本展」でご覧頂けます。出版されているものとは違う彩色で見比べていただくと面白いでしょう。

「あいうえお」を覚えた時の記憶はありますか。筆者はあいうえおが一文字ずつ書いてある積み木で遊んでいたことを覚えています。正確に言えばこれは「あいうえおのひらがなを覚えている頃の記憶で、「あいうえお」はまず耳で自然に覚えてしまったのでしょう。これと似た話を聞きました。『ありちゃんあいうえお 』(2013年講談社)をお母さんが声を出して読んでいたら自然に小さなお子さんがあいうえおを言えるようになったというのです。

この本の副題は「かこさとしの71音」で、かこの手書き文字(下)にある濁音や半濁音を合わせた71音が出てくるリズムあることばが集められています。「かこさとし」というペンネーム「かこ」については、あいうえお順と関係があるのです。本名はナ行であいうえおでは少し間があるので、か行の最初と最後の文字の組み合わせだと語っていました。

『ありちゃんあいうえお』では、か、こは次のような言葉で紹介しています。
「からすちゃん かえる」
「こおろぎくん こまる」

主語は動物や昆虫、述語は動詞だけでなく形容詞、形容動詞などです。これが濁音になると
「がまちゃん がんばる」
「ごりらくん ごねる」となります。

かこは常日頃、言葉集めに余念がなく、おもしろい言葉や言い回しを拾い集めるようにノートに記録していました。そうして集めた中から様々な、言ってみれば「あいうえお作品」が生まれました。出版されたものの中からご紹介しましょう。

『こどものカレンダー1月のまき』(1975年 偕成社)には、1月ということで、いろはがるたが本全体にわたって紹介されていて、「い」はこうです。

一を聞いて十を知る(尾張)
一寸さきやみの夜(上方)
犬も歩けば棒にあたる(江戸)

という具合に地域による違いもわかるようになっています。
いろはがるたは、本文の説明にあるように「むかしの人が こどもたちに いろんな ことを しってほしいと おもい」作ったわけです。以下は1月25日のページ、かこ作の「あいうえおうた」です。

あいうえおうた

(引用はじめ)
あいうえおはよう おかあさん
かきくけこどもも おてつだい
さしすせそらには おてんとさん
たちつてともだち なかよしと
なにぬねのはらで あそびましょう

はひふへほんも よみましょう
まみむめももたろ きんたろう
やいゆえよるの おはなしは
らりるれろばたで たのしんで
わいうえおやすみ おとうさん
んと よいゆめ みてねましょ
(引用おわり)

[おうちのかたへ]として、かこのメッセージがそえられています。
(引用はじめ)
北原白秋の「五十音」にならって、ことば遊びのを歌をつくってみました。いろいろ考えたり楽しんだりしていただければと思っています。
(引用おわり)

あいうえお元気で かきくけコロナに負けず さしすせその2に続きます たちつてとっても面白い おいうえお物語り またこんど!

お家遊びいろいろ

投稿日時 2020/05/11

一度見たら忘れられない表紙です。きりなし絵というそうです。

「こどもが絵本をみている絵があります。よく見るとその本の絵は子どもが絵本を見ているところで、そのまた絵本の絵が本をみている子どもで・・・と、どこまでもつづく絵のことです。」と『ぼくのいまいるところ』(1968年童心社)のあとがきに「大きな世界と小さい自分の存在の尊さ」と題して、かこさとしが書いています。

かこは小さい時こういう絵が大好きだったそうで、こう述懐しています。
「ふと気がつくと、その絵本を見ている自分がその絵の当人じゃないかと思いつき、おもしろさと、ふしぎな気分にいつまでもひたったものです。」

『ことばのべんきょう くまちゃんのいちにち』(1970年 福音館書店)は裏表紙(上)もきりなし絵です。

この本は15センチ四方と小型ながら中には可愛らしい動物たちの楽しい世界が広がり、面白さがぎっしり詰まっています。これは4巻シリーズの第1巻で、くまちゃんの1日を見ながら言葉を覚えられるようになっていて、あさのようじ、食事やおやつ、掃除や洗濯などの場面、外の遊び、そして部屋の中の遊びも2場面(写真上・下)ずつ描かれています。

お家遊びのヒントにしていただけたらと思いますが、「いたずら」はほどほどにお願いします。私がかつて遊んだ中では「おばけごっこ」が静かでいいわ、と評判が良かったのですが、驚かされる人が大声で悲鳴をあげてしまう恐れもあります。。。

「そとあそび」と「へやのなかのあそび」の場面は、新型コロナウイルス感染防止のため予定変更で5月12日から8月31日まで開催の愛媛県歴史文化博物館の展示会で『くまちゃんのいちねん』の絵と合わせて多数ご覧いただけます。

天然痘(ほうそう)

投稿日時 2020/05/06

5月14日は種痘記念日。
人類が初めてそして唯一撲滅できた感染症である天然痘の予防接種、種痘にジェンナーが成功したのは1796年5月14日でした。この記念日はその「功績をたたえています。ジェンナーが種痘をし、成功したのは、ジェームズ・フィリップスというみなしごの男の子でしたが、学会で発表したとき、名前を発表しなかったので、ジェンナーのこどもとまちがえられて伝えているものもあります。」と、『こどものカレンダー 5がつのまき』(1975年 偕成社)5月14日の〔おうちのかたへ〕コーナーに書かれています。

かこの描いたジェンナーとこどもの絵(上)とともに本文最後にはこうあります。

「あなたの おとうさんも おかあさんも あなたも、うでに ほうそうの あとが あるでしょう。
それは、ジェンナーさんのおかげで、てんねんとうに かからないように したあとなのです。」

天然痘撲滅宣言が出されたのはこの本が出版された5年後1980年5月8日のことでした。

人類と天然痘との戦いは大変長い歴史があるようです。
日本の歴史をさかのぼると、奈良の大仏として知られる国宝、東大寺盧舎那仏は、天然痘の流行などもあり社会が不安定になったことがきっかけで聖武天皇が天平15年(743年)大仏建立の詔書を出したことに始まります。

大仏が出来上がるまでには本当に様々な出来事があり、現在にいたるのですが、その詳細は是非『ならの大仏さま』(初版1985年福音館書店、2006年以降復刊ドットコム)をお読みください。この本のあとがきは当サイト2019年5月の[あとがき]コーナーに3回にわけて連載してありますのでそちらをどうぞ。

『ならの大仏さま』には、天然痘の事も書かれています。
【藤原兄弟の病死】
上記の小見出しの場面では次のようです。
(引用はじめ)
「。。。大陸から天然痘が伝染してきました。
多くの人がつぎつぎと倒れ、死骸の山が積まれるありさまでした。当時都にいた貴族の三分の一がたちまち死に、そして天平9年(737年)には、藤原四兄弟と呼ばれていた光明皇后の兄たちも、あいついで死んでしまいました。」
(引用おわり)

上の絵は【疫病流行の図】をかこが模写したもので、「からだをあたため、敷物の上でねて、水をのまずにすごすとともに、神仏への祈り邪気をはらうまじないにたよりました」という説明があります。

この図の左側には「貴族の家」が描かれ、屋敷のまわりには赤い糸のようなものが巡らされています。門扉の外には、助けを乞うような人、右側(上)には「地方の庶民の家、や「都の庶民の家」が描かれ街頭では祈る人々、おりかなさる遺体も見られます。

この77ページにも及ぶ本の結びにかこさとしが書いた文章をご紹介します。
(引用はじめ)
ならの大仏の歴史は、利害や欲望に誤りやすい人間が、迷いや悩みをすこしずつのりこえてきたことを示す貴重な跡と言えるでしょう。正しい人とはどのようなことにはげむ人のことであり、美しいとはどんなことにいそしむ人の行いをさすのかを、この1300年の大仏の歴史から学ぶことができると思います。
ですからこの本「ならの大仏さま」を、過去の事件の記録として見るのではなく、これからさまざまな分野で活躍するあなたの道しるべにしていただきたいと思います。それが青銅の大仏を「ならの大仏さま」とよんで親しんできた人びとの、切なる願いであったと私は思うからです。
(引用おわり)

上は『ならの大仏さま』裏表紙。この本の複製原画は5月12日から開催予定の愛媛県歴史文化博物館「かこさとし絵本展」で展示いたします。ご期待ください。

お家にいよう!
そんなメッセージを込め、かこ作品の中から「いえ」をテーマにした絵本のあとがきをご紹介してきましたが、これが最終回です。

絶版になっているこの本が出版されたのは1985年、マイホームを持つのがサラリーマンの夢だった頃です。かこさとしがセツルメント活動をしていた川崎から終の住処となった藤沢に転居してきたのは1980年のことでした。そのお祝いに勤めていた会社の方から芝犬の子犬をいただき、犬小屋を手作りしました。

この本では、あきえちゃん一家が都会から郊外の家に引っ越し、おばあちゃんも一緒にくらすことになります。そして仔犬のジロも加わります。

家にいる時間が長い今、かこの「あとがき」にどんな感想をもたれるでしょうか。

あとがき

(引用はじめ)
「衣・食・住」とか「家はわが城」といわれるように、家は人の生活にとても大切な所です。そのため私は家についての本を何度か書いてきましたが、もう一度この大切な家を新しい見方でとりあげてみました。

それは衣と食は充分ゆきわたっているものの今の日本で、最もおくれ貧しい状態におかれているのが、「住」であるからです。しかもただ広ければとか便利であればよいのではない重要な点を、ぜひしっかり考えてほしかったからです。 かこさとし
(引用おわり)

どうか皆様お大事に。

お家にいよう!
そんなメッセージを込めて、かこ作品の中から「いえ」に関連する絵本のあとがきをお届けする第2回めは『あなたのいえ わたしのいえ』(1969年福音館書店)です。

モダンな絵ですが出版まもない頃フランス語に訳され、描かれてから半世紀以上経た現在は中学の技術家庭科の教科書でも紹介されるなど、長年にわたり読まれています。

尚、今回ご紹介する「あとがき」は東日本大震災の後に書かれたものです。

あとがき

(引用はじめ)
家の造りを屋根、壁、出入口、床、窓の順に述べたこの本を見て、専門の建築家はきっと笑われるでしょう。しかし、まだ戦災の名残が残っていた当時、浴室、台所、トイレのない寄宿舎などに住む人が大勢いたのです。そうした所の子に「自分が住んでいる所も立派な家だ」と思ってもらえるよう描いたのが、上に述べた5つの要素となりました。その後、各地で災害が起こるたび、特に2011年3月11日に起きた東日本大震災で、体育館や仮設住宅に居住している子どもたちの様子を当時と比べ、胸が痛む思いです。加古里子
(引用おわり)

お家にいよう!
そんなメッセージを込めて、かこ作品の中から「いえ」に関連する絵本のあとがきを3回シリーズでご紹介します。
第1回目は1960年に福音館書店から出版された「母の友」絵本48『あたらしい うち』です。絵は残念ながらかこさとしではありません。今から60年前ですから現在の住宅事情とは異なりますが、家を失ったかこさとしの経験からにじみ出る言葉をお読み下さい。

希望と狂気

(引用はじめ)
最近は、どこへいっても新築、改築をし ています。都会地では、新しいビルがたち効外では、集団住宅やアパートがおそろしいいきおいで建設されています。また、まったく個人的な新築も、さかんにおこなわれています。それをみていると、とてもうれしい気がします。新しい家へ、新しいアパートへやってくる家族やその子ども達はきっと希望に胸おどらせてくるだろう。

子どものころ、新しい家へ、 トラックに のってひっこしをしたときのことは、今もありありとおぼえています。きっとあの日の空は、青々とはれわたっていたはずだ、といったような確信めいた気持さえします。

それと反対に、家をやかれ、爆撃におびえてにげたときの恐怖と絶望。同じ人間の手でおこなわれるにしては、あまりにも違いすぎます。同じ物資がつかわれるにしても、一ぽうはあまりにも狂気です。

一年ほど前に、『こどものとも』の一冊 として、「ダムのおじさんたち」という絵本がでました。それはダム建設という、社会的な集団的な建設をテーマにしたものでした。この号は、もっと身近な、家族的なーつの建設をとりあつかっています。私はこのどちらもたいせつだと思います。これから育つ子どもたちが、その両方の建設の仕事を、しっかりとやれるようになってほしいとおもいます。破壊のおそろしさを痛切には知らないいまの子どもたちに、より多く、より強く、建設のよろこびをしらせるようにしたいとおもいます。
(引用おわり)

「あとがき」にもあるように、かこは幼い頃、ジフテリアに罹ったそうです。現在の日本では感染する人は非常に稀だそうですが、筆者が子供の頃は、まだこの感染症がありました。のどの内側が白い膜で覆われる症状が特徴で、私が喉痛になると父や母が喉の中をのぞいたものです。幸いにも私の場合はいつも扁桃腺がはれたことが原因でしたが、この数十年の間でも人類は様々な病と戦ってきたことがわかります。

1988年に書かれたこの本では、子どもたちが自分が病気になったときの体験談をお互いに話します。その中に治療法がない難病の女の子がいて、老人ホームのお年寄りに自分が育ててきた花を届けるというので子どもたちが一緒に出かけて行きます。

最後の場面はこうです。その帰り道、子どもたちは

(引用はじめ)
「びょうきに なった とき、かんがえた ことを おもいだしながら かえりました。びょうきになって、つらくて さみしかった こは なおったらもっと からだを よく しようとか、せわを して くれた ひとのことを、とてもありがたく うれしく おもいました。

おもくて ながいびょうきに なった この なかには、 じぶんの ことより まわりの ひとや もっと かわいそうな ひとのことを かんがえたり、ながく いきる ことより いきている あいだを だいじに たいせつに すごそうと おもった こが いたのです。

だから びょうきに なったら おだいじに。 びょうきに なっても たいせつに。」
(引用おわり)


それでは「あとがき」をどうぞ。本文同様、分かち書きです。

あとがき

(引用はじめ)
わたしは ちいさいとき ジフテリアと いう びようきで とうかばかり くらいびょういんの へやで くらしたことが あります。 ふとい ちゅうしゃを してくれた おいしゃさんや、 すこし びょうきが なおって きたとき まどに こしかけていたら、かんごふさんに ひどく しかられたことなど、 このほんを かきながら そのときのことを こまかにおもいだしました。 もし あなたが びょうきになったら、 そのときのことを しっかり だいじに わすれないようにおぼえておいてくださいね。
(引用おわり)

一枚の写真

投稿日時 2020/04/15

2015年2月、みぞれまじりの寒い朝、かこは川崎市中原図書館で開幕する「かこさとし川崎の思い出〜1950年代のセツルメント活動と子どもたち〜」展の初日の記念講演の会場に入りました。

開場までにはまだ充分の時間があり、入場はハガキによる予約制でお断りをするのに苦労するほど多くのご応募があったため講演会の準備にも大勢にお手伝いいただき余念なく進むなか、一人の男性がマイクチェックをしている舞台のかこのもとに近づいて来られました。

その表情はなんと表現して良いのか、目元がくしゃくしゃしていて、何事かあったのかと思わざるを得ない様子でした。言葉も明瞭ではなく、聞けば、手にした一枚の写真を見せ、これは自分だといわれました。その方が持っていたのが冒頭の写真。かこのセツルメント活動を語るときに必ずと言って良いほど紹介されるものです。

女の子を先頭に子どもとセツルメントのメンバーたちが背の順にならび最後に立っているのが、メガネに帽子の若き日のかこさとし。その男性は「かこ先生」といったきり、もう言葉が出てきません。お顔を拝見すると、そう、写真の男の子の面影があります。慌ててかこの傍らにお連れし、あとは涙、涙の再会となりました。

その日の講演では、前半はかこがセツルメントについて語り、後半はセツルメント活動に携わった方々やかつての子どもたちが壇上に上がりに思い出を語るという構成でした。この日の為に、長い時間にわたる献身的なご協力をいただき、ようやく連絡がとれた当時の関係者の方々のお話からは、セツルメント活動が果たした役割の大きさが伝わってきて満員の聴衆も大変心を動かされました。写真の男性にも急遽壇上に上がっていただきました。

60年以上の時空を超えてかこと再会できたこの男性のおかげで当時の子どもたちのことが次第にわかりました。かこはこの再会を何にもまして喜んでいたのは言うまでもありません。その写真が、2020年3月20日に出版された『写真が語る 川崎市の100年』(いき出版)に収録されています。かこにとって忘れえぬこの一葉は、戦後日本の復興を支えた工場で働く人達の多くが暮らした川崎の歴史を伝える一コマでもあったのです。

2020年3月川崎市広報特別号などでも

この写真やセツルメント活動については川崎市広報特別号やタウンニュースでも取り上げられました。かこの手書き資料(初公開)などが掲載されています。詳しくは以下のサイトでご覧ください。

川崎市広報特別号

タウンニュース

この本が書かれたのは1986年。当時かこの次女は救命救急医として働いていました。たまにではありましたが、時折こぼれ聞くその様子がきっかけとなり病院で働く人々を応援しようとこの本を書いたと亡くなる直前にかこが話してくれました。

この本にはドクターヘリなどによる救命活動もえがかれていますが、当時と比べものにならないほど現在の医療は高度で進んでいます。しかし、そこで働くのは同じ人間です。現在の病院の様子をかこが知ったらどんな言葉を口にするでしょうか。そんなことを思いながらご紹介いたします。

あとがき

(引用はじめ)
いま、日本の医学は、非常に高い水準にあるといわれ ています。ところが、いったん病気になると、治療も施設も看護も、入院も費用も対応も相談も、なかなか満足のいく状態になっていないことがわかります。

保険制度や大学病院は立派でも、最後は個人の力によらなければならないというのは、非常に残念なことです。 「病人になったら、まず医療状態をなおさないと直らない」のでは困ったものです。

こうした問題を考えてもらうため、最も医療の原点である救急医療の活動を描きました。
かこさとし
(引用おわり)