編集室より

『だんめんず』(福音館書店)が1973年に「かがくのとも」として刊行された時の折り込み付録には、「だんめんず」と「かがくの本」と題する加古里子の長い文章が掲載されていました。珍しく自分の事、成績のことにも触れてていることから、断面図など図面を書くことがよほど好きだったことがうかがい知れます。2回に分けてご紹介します。

「だんめんず」と「かがくの本」 加古里子

図学の試験

私は戦争中、旧制の高等学校の理科甲類に在学していました。理科甲類というのは、将来工学や理学を専攻する者のクラスで、理乙は医学や農学系のクラスでした。だから私たちのざれ歌に「理甲の頭をたたいてみれば、サイン、コサインの音がする」とか「理乙、理乙といばるな理乙、末はタケノコ、ヒトゴロシ」というのがあったわけです。

その理科甲類の生徒は、図学という学科をしなければなりませんでした。用器画とか幾何の学課をひろげたようなもので、将来機械とか建築の仕事に従事して、製図をしたり、図面をよみとったりするための必要な課目でしたが、何しろ定規できっちり線をひいたり、コンパスをいじったりして面倒なものですから「図学(ドロウ)はドロン」といって、いつの間にか教室を逃げ出したり、敬遠するのが普通でした。

ところがおかしなことに、わたしこのドロウが大好きで、最も得意な学科の1つでした。その理由としては、数学をはじめもろもろの学課がほとんど抽象的でありすぎる中で、最も明瞭具体的であったからかも知れませんし、絵画などの学課がない当時の高等学校の課目の中で、最も「芸術的なかおり」があったゆえかも知れません。

そんなわけで明日は図学の試験があるという前夜、寮の級友たちは徹夜でコンパスなどをふりまわしているなかを、私1人さっさとねてしまっていました。しかし、翌朝の私は、定規やコンパスのよごれをきれいにふきとり、手やゆびをよく洗って教室に入りました。そして答案をかく際も、下の机の小穴や木の目で、図面にいらざるよごれや濃淡がつかないよう配慮して仕上げることに注意を注いでいました。私の場合、大げさに言うなら、問題の正解に腐心している級友をしり目に、その段階よりも1段階上の、どうしたら見やすい美しい答案図に仕上がるかを考え、それを目標にしていたのでした。したがってほとんど図学の試験は満点に近い成績をとりつづけていたと覚えています。

ザンコク物語

この図学の時間の中で、私が1番興味を持ったのは「透視図法」と「切断」の章のところでした。透視図というのは線路が遠くになるにしたがってちいさくなって行き、電柱の高さがだんだん短くなって見える様子を幾何学的に図表化する方法ですから、まるで絵画と同じでしたし、若き日のダ・ビンチが研究していたというものですから、もう夢中になってしまいました。一方の切断ということは、ある立体とある面が交差したり、よこぎった場合、両方に属する部分の形や位置をえがく方法です。普通は立体と平面との場合ですが、実際にはらせん階段がまるいホールの壁につながる箇所など、立体と曲面の場合も案外あるものです。当時の私は金属コンンクリート製のものを、まるで大根かキュウリのほうに、スッパスッパきることのおもしろさつられて、ノートのはじに難攻不落の大要塞の断面図をえがいたり、肩から腹にかけてけさがけにきったなまなましい人体断面図を作ったりしていました。(少々若げのいたりでザンコク趣味があったのでしょう)

「かがくのとも」3月号「だんめんず」は、こうした私の高等学校以来の図学的考えや試みがつみ重なってでき上がったものです。学者や本によって截断面(せつだんめん)、截面、切面、切断面、截切面などいろいろの名称がつかわれていますが、ここでは一番普遍的な断面及び断面図という名称を使わせていただくことにいたしました。

かこさとしの『子どもの行事 しぜんと生活 10月のまき』(2011年 小峰書店・上)にハロウィンも紹介されています。しかしハロウィンにぴったりな絵本といえば、おばけが出てくるものですね。

あります。『だるまちゃんとはやたちゃん』(2018年福音館書店・上) 。何しろ、だるまちゃんが審査をするのは、おばけ大会ですから、東西南北のおばけが広場に勢ぞろい。代表は下にご覧の通り。ちゃんと名前も付いていますので、是非お読み下さい。
ちょっと気味が悪いけれど、なんとなく愛嬌がある面々がずらりと並んで皆様をお待ちしています。

「ふしぎな素材」をテーマに 加古里子

「かがくの本」とは?

ところでいったい、「かがくの本」というものは何なのでしょうか?それは、「たくさんある科学知識を切りきざんで、細切れにして売る本」でも、「最近の科学情報をこじんまりとまとめたミニコミ版」でもないはずです。まして、「複雑多岐に分かれた近代科学の諸分野を、わかりやすく絵ときした本」でもなければ「おとなも少々、答えに困る内容を、マンガなどをいれて読みやすくした読物」を「かがくの本」ということはできないでしょう。「かがくの本」というばあいの科学の要点として、
① 目的や目標をハッキリすること。
② 実施の方法や手順を、すじ道たてて計画すること。
③ 成果や失敗から得られる法則や教訓を整理し、体系化すること。
④ 客観的な事実の認識の上にたって、すべてにわたって合理的な考えを、判断の基準とすること。
があげられます。芸術や宗教、さては経営や政治などはこのうちの1つや2つを欠いても問題となりませんが、科学はこのうちの1つも欠かすことができません。

また、「本」というものの持つ性格は、次の事項にまとめられるでしょう。
① 現在おいては、印刷形式と製本形態をとり、現在の社会では一種の商品として売買されること。
② 単色ないし色彩による文字、記号、図形、写真、数式などによる伝達方式であること。
③ 表面的な売れ行き、人気などは、ただちにその内容の良否、価値を示すことにはならず、読者への効果影響はゆっくりとして波及顕在化すること。

こうした「科学」と「本」を単に加算しても、よい「かがくの本」の基準とすることができません。やがて、いろいろな方の研究がこの分野にも行なわれることでしょうが、私自身の判断の目やすとして、次のような項目を、よい「かがくの本」の基準と考えたいと思っています。

A. 内容が正しく、間違っていないこと。
(当たり前のようですが、よく考えると、なかなかこれはむずかしいことです。本を読む立場と、つくる立場の両方から正しいと言うことと、商品であることを全うさせるには、多くの複雑で困難な問題をふくんでいます)

B. 内容が発展的に書いてあること
(科学の発展が急激である現代、5年前のものではもう役にたたぬ場合が多く出てきています。時には古い考えや解釈は誤りであることさえあるのです。したがって、現在の時点のみに固定した表現や断定をしている本は、消して、よい本とはいえません。どうしても将来への発展方向を見さだめた上での、永続性のある表現が求められてきます)

C. 文・画・写真などが一体となって展開していること。
(本は視覚による伝達方式ですから、単に文字だけよりは図形を伴った方が、より的確な表現、より印象的な伝達が可能になります。しかしだからといって、このごろの漫画のように、当然文字表現によるべきところまで絵に置き換えたり、文字による方が、より読者の成長発展をもたらすはずであるのに、過度に図版を使用する事はさけなければなりません。もっとはっきり断定的にいうと、本という伝達媒体の主軸は、やはり文字であることを考えておくべきでしょう)

D. 興味性によってうらづけ貫かれていること。
(1冊の本を読み通し、その内容を理解し、何ものかをつかみ、さらにそれを発展させる力は、読者の側の働きにかかっています。そのような読者の力を発揮させるには、本にもられた面白さだけが力となります。なぜならどんなに素晴らしい内容や行動の理論も、読まなければそこで停止し、おしまいとなってしまうからです。本による影響効果の原動力となるものは、この興味性です。そしてこの興味性は、読者の水準により、いくらでも高くもなるし、また、いくらでも低俗に落ち込む性質を持っています)

E. できるだけ安く、しかも相応に高価であること。
(禅問答のような、この意味は、本というものがその内容がよければよいほど、多くの人々に読まれなければならないので、できるだけ安価にする努力が望まれます。しかし、内容と表現の隅々まで細心の注意と創造力が傾注されていなくては、良い本はできません。そうしたい本は、それだけの労働の産物ですから、それに見合う価値が正当に求められてしかるべきでしょう。それは高価であってもおかしくなく、むしろ高価を主張しうるにふさわしい内容が求められます)

F. 今日、その本の存在意義があり、更に将来にわたって必要なものであること。
(本の必要性が今、求められるとともに、過去にあった本との対比、外国の類書との比較で、進歩と独創性が誇れるかどうかが求められます)

さて、こうした私自身のA~Fの目安によって、「ごむのじっけん」はいったい「かがくの本」として合格でしょうか、どうでしょうか? 気の小さい私の心が今、ゴムのように、のびたり、ちぢんだりしているところです。

2018/10/15

新聞週間

2018年は10月15日から新聞週間、現在では新聞を購読している家庭が減少しているそうですが、加古と新聞は切り離せません。

20代後半からしていたセツルメント活動ではガリ版刷りの新聞を毎週発行、子ども会の日頃の活動内容や遠足など行事についてご家庭に連絡、知っていただく役割もはたしていました。

子どもたちの詩や俳句なども掲載、やがて子どもたち自身が編集、印刷、販売し毎週発行するまでになりました。

ここで加古が子どもたちに言ったことは、新聞というからには1)世界のニュース 2)日本のニュース 3)自分たちの町のニュースの3つは入れるように、この約束を守れば、あとは自由。このようにして刷り上がった、わら半紙の新聞は今でも手元に残してあります。価格は紙代の2円。子どもの字で3項目のニュースの他、四コママンガ、懸賞クイズ、詩、連載小説と盛りだくさんの内容から子どもたちのエネルギーが溢れ出てくるようです。

何を隠そう、この紙面の体裁は2016年刊行の『だるまちゃんしんぶん』にも踏襲されているのです。この新聞は季節ごとの紙面で4枚が1組となっています。秋の号のトップはこんな感じです。(上)「せかいびっくりニュース」「にっぽん きせつ ニュース」に加え「まちやむら あちこちニュース」では、だるまちゃんやおともだちのお祭り、運動会、お月見など数々の楽しいニュースが紙面をにぎわわせています。

加古は他にも会社員時代は絵や紙芝居に関しての新聞や壁新聞、孫家族が海外在住の期間には月に3回のファックス新聞、といった具合に手書き新聞を作成発行していました。

紙、ウェブと媒体は何であれ、自分発行の新聞があったとしたらどんなニュースや記事がトップを飾り、どんなユニークなコラムが登場するのでしょうか。秋の夜長にふと考えてみたくなりました。

この本が出版された1971年当時には、どこの家庭にもたくさんあった輪ゴム。前扉の絵(下)にあるように女の子たちはこれをつなげてゴム跳び遊びに熱中しました。ゴムについてのこの本の折り込み付録に掲載された、かさとしの文「ふしぎな素材をテーマに」を2回に分けてご紹介します。

「ふしぎな素材」をテーマに 加古里子

のびたり、ちぢんだり

私たちの身のまわりには、いろいろの物質がとりまいています。石や木、水や空気、プラスチックや金属ーそうした個体や気体や液体の様々な物体の中で、ゴムという物質は非常に特殊な、特別な性質を持っています。

ゴムは、少し力をいれてひっぱると、もとの何倍にも伸び、力をとると、もどにもどります。この弾性と言う性質を、ほとんど、すべての個体は小さいながら持っているのですが、ゴムほど大きな弾性を示すものはありません。そのため、科学者たちは、この特異なゴムの性質を特に「ゴム弾性」とよんで、区別しています。

子どもたちはゴムのパチンコや、ゴムひもとびや、ゴムでっぽう、さては、「ゴム」と称するあやとりの種目からわかるように、ゴムを、のびたりちちんだりするものとして、しっかりその性質をつかんでいます。科学者が「ゴム弾性」として区別していることと全く一致しているのです。

この、子どもたちがはっきり知っている性質が、ゴムという物質の一番重要な本質と結びついているーーこういうすばらしい例を、「かがくのとも」の題材とするのにふさわしいのではないだろうかーーと考えたのが、このゴムを取り上げた第1の理由です。

いろいろな所に使われている

第2の理由は、私たちの身のまわりや世の中に、ゴムが意外に多く、いろいろな所に使われているということです。水道のパッキングや自動車などのクッション材として、ひっそりと目立たない形で重要な役割をはたしています。それは、ゴムが、第1番目の弾性という性質のほかに、第2番目以下の性質を、いろいろ持っているからで、そのため更に多くの用途に使われていることとなったのです。しかし反面、この第2番目以下の性質は、ゴムだけが持っている特性ではありません。プラスチックとか、合成繊維とか、金属なども、同じような性質を持っています。ですから、当然これらと競い合ったり、おきかえられたり、まぜて使われたりすることとなります。

ここで、ゴムという物質を、はっきり、よく知るためには、性質が似た他の物質と比較したり、選んだり、見きわめたりすることが必要となってきます。よく観察したり、考えたりすることが必要ということーーこれが、ゴムを、「かがくのとも」の題材として選ばせた第2の理由です。

今なお、未開のなぞを持つ

第3の理由は、ゴムは、初め天然にはえた野生の植物からつくられましたが、それが人工的に栽培されるようになり、やがて化学工業の製品として合成されるようになりました。その間、ゴムという物質の化学組織や構造の解明に多くのすぐれた科学者や技術者の研究が行われましたが、今なお、天然ゴムには、すぐれた特長と未開なぞが秘められています。

しかも、そのゴムのたどってきた道は、各国の政治や外交、戦争や経済のちなまぐさい歴史にいろどられています。たとえば、アマゾンの野生のゴムの種子を密輸し、マレー地方にゴム園を育てたイギリスの植民地政策、合成ゴムの成功を誇らかに党大会で発表したナチス、賞金つきでゴムの木以外のゴム植物を探し出したアメリカとソビエト、グッドイヤー・ダンロップ、デュポン等、ゴム工業にその名をひびかせている巨大な世界企業をぬきに、ゴムのことは考えられません。

すなわち、ゴムというものは、自然科学の題材として適当であるばかりでなく、同時に、社会科学の対象としても取りあげるにふさわしい性格を持っていると言うことです。

このように、考究に値する大きな題材に、興味と関心を持っていただく1つのきっかけとしたいーというのが、「かがくのとも」に取り上げた第3の理由です。

この科学絵本は1970年「かがくのとも1月号」(第10号)として刊行されました。その時の折り込み付録にあるかこさとしの文「あなおそろしきエレキテル」を2回に分けて掲載します。

「あなおそろしきエレキテル」加古里子

電気にとりかこまれて生活している幼児のためにーー

電気というものは、もうすでに私たちの生活から切り離すことのできないものの一つとなっています。
朝起きてからーーと言うより家庭によっては起きる前から自動スイッチや電気釜が動き出し、寝るまでーーこれもテレビやラジオつけ放して寝る人もいるようですがーー四六時中電気の恩恵をこうむり、その中ではじめて生活が営まれているといっても過言ではありません。子どもたちも、そういう中で毎日を送っているわけです。

この本の目標

こうした現代生活や社会のなかでのこの本の目標を、
(1)子どもたちが興味と関心を持ち恩恵をうけている重要な、「電気」というものを、子どもたちの日常生活の形の中で提示すること
(2)子どもたちの理解の範囲内で、最も重要で基本的な電気の原理で変則共通性といった点を浮かび上がらせる事の二点に集約しました。

ですからもし、これそれ以上のことをこの本からとられたとしたならば、それはこの本を読んでくださった子どもさんの能力がすばらしかったか、ご家庭の指導のたまものであって、決して作者の功で責でもないわけです。

電気に強い子どもを育てるにはーー

さて、子ども向きの本、特に幼児のための絵本で「電気」をとりあげるのは、いささか冒険といわれる方もあろうかと思います。私の知っている範囲でも、雷とか静電現象とか、せいぜい電池でのおもちゃがとりあげられているばかりです。

しかも悪いことに「電気」というものは、一般の人にはなかなか理解しにくい苦手な部類に属しているものであるということです。ことにいけないのは、電化家庭器具の第一の使用者であるお母さん方の大部分が時とすると、電気をダカツのごとくきらっておられるということです。人参や毛虫の嫌いなおかあさんの子は、それを忌みきらう率が極めて高いことと考え合わせますと、電気ギライはやはり子に影響があることでしょう。

電気がこのようにケイエンされるには理由があります。第1に目にみえないことです。電線はみえるが電気がきているんだかどうだかわかりません。その本体が具体的な形をとっていないということは、とても認識するのに妨げとなるものです。第2は、さわるとビリビリっときたり、パチっと火がとんだり、時によるとショック死するような恐怖感がつきまとうものであること。これには何せカヨワキおかあさんがたの最もいやな所です。第3に、こんなに好ましくなく、逃げだしたいのが山々なのに、使わずにいられないという所です。

電気の本質とは

以上の三つこそは、「電気」の性質をみごとに把握していることのあらわれだと思います。私にいわせると、こんなにも「電気」の性質をはあくしているおかあさんこそは、「電気」のよき教育者にもなれる筈だと思っています。そういう自信をおかさんがたがもってくださるなら、電気がすきで、よく理解したい子がどっさりふえることになるでしょう。そうしたらすばらしい指導者が身近におられるのですから、従来のような「現象的電気の本」ではなく、「本質的な電気の本」をつくってみたくなりました。その電気の本質とは何かといえば、この本では、ひそかにはりめぐらした三つの事項、
(1) 電気はつたわる
(2)電気と磁気とは兄弟
(3)電気は光、熱、音などに変わる
ということです。このことをくみとっていただければ、わたしの「電気学校」はもう卒業というわけです。

『でんとうがつくまで』が1970年に刊行された際、折り込み付録としてついていた、かこさとしの解説文「あなおそろしきエレキテル」の後半を掲載します。

「あなおそろしきエレキテル」加古里子

蛇足を少々ーー

電気は電気

あとはもう読者のみなさんがたにおまかせするばかりなのですが、二つ三つ蛇足をつけ加えますと、水力であっても火力であっても、発電された電気そのものに全く変わりありません。もちろん、他の風力その他でつくられた電気の場合も同じです。「水の電気は青く、火力の電気は赤っぽい」などということはありません。現在水力発電は、開発、 設備費の巨大になるため、あまり期待できず、大部分火力発電となっています。火力の主体は重油ですが、石炭もつかわれるため、この本では、石炭重油の両用できる形を示してあります。火力発電で、いったん蒸気となり、蒸気車(タービン)を回すのに使われた水は冷えるとまたボイラーにもどして何回も使うようになっています。水力発電でも、いったん水車をまわして流れた水を、夜間余った電力でポンプをまわし、再びダムにくみあげるなど、合理的な方法が工夫されています。やがては、原子力による発電が、増加するといわれています、また、電気をおこす機構がちがう太陽電池、MHD発電等の方法がありますが それらについては省略してあります。

変圧器の働き

発電機でおこされた電気は、効率よく送電するため、10万、20万、ときによると50万ボルト以上の高圧に変圧器でかえられ高い電塔にはられた送電線で消費地に送られます。送電線は、銅やアルミでつくられています、消費地近くまで高圧で送られた電気は、一次変電所、二次変電所等で、6千6百ボルト、3千3百ボルトにだんだん下げられ、大きな工場やビル等へ送られます。家庭にはさらに電柱や地下ケーブルの端に、小型の変圧器があり、2百または百ボルトに下げ、そこから家庭内の引込線となっています。家庭の入口にはメートルとよんでいる積算電力計、安全器、ブレーカーなどがあって、その端が電灯やコンセントとなっています。

説明図に工夫

それから、発電の説明図で、本当はコイルの位置が、教科書などにあるように磁石の上にある方が実験室としては効率的なのですが、そのようにすると実際の発電機と図の対比が混乱することと、電気の流れの方向が、磁石動きで逆むきとなることの二つの理由から、あえて変えておきました。説明図を単に説明に止めるのではなく、外形しかわからぬ実用機器機構的説明を、一連した形であらわしたいというねがいに発しているわけです。

さて、こうしてできたこの本が「あなおそろしやエレキテル」の本となるか、「あれおどろきてアキレテル」の本となるか、一にかかっている読者のみなさんのご批判をまつことといたします。

川崎市市民ミュージアムでの「かこさとしのひみつ展-だるまちゃんと探しに行こう-」が終わって1か月が過ぎようとしています。この展示期間中に設けていただきました「いつまでも いつまでも かこさとし 」のコーナーで皆様が書いて下さったメッセージを先ごろ受け取りました。

一人では持ち上げられないほど大きくて重い箱には、8冊のファイルに綺麗にまとめられたメッセージカードが3801枚と、添えられたお手紙にありました。また、展示会に先駆け全国各地の書店に設置されたメッセージボックスに投函していただいたものをまとめた5冊のファイルも一緒に届きました。これより先に越前市ふるさと絵本館からいただいたスケッチブックのメッセージと合わせ、毎日じっくり読ませていただいております。

カードは皆様のお気持ち、思い出、励ましや感謝の言葉に溢れ、様々な表情のだるまちゃんやからす、かこの顔、キャラクターなど、どれもこれも心に響くものばかりです。ようやく鉛筆が持てるような小さい方の手によるものから、きっとプロフェッショナルと思われる筆使いで描いてくださっている方。

小さな限られたスペースにこんなに素敵な画面を、こんなに広い世界を、深い思い、長いご家族の歴史を書いてくださった皆様に頭が下がり、感謝しつつ、笑顔でそして時に涙で、お一人お一人におめにかかるようにして、その時間を過ごしております。皆様のお心の中に、かこさとしが生き続けていることがわかり、これ以上嬉しいことはありません。

遠方から来てくださったり、何回も足を運んでくださった方も多くいらして、偲んでいただいたかこさとしは、さぞかし恐縮していることでしょう。「申し訳ないねえ。お返事が書けたらなあ」という声が聞こえてくるようです。

直接御礼申し上げることができず、また感謝の気持ちを表す言葉が見つからず情けなさでいっぱいですが、衷心より厚く御礼申し上げます。

最後になりましたが、皆様のご健康とご多幸を心よりお祈りしております。誠にありがとうございました。

金木犀の香り漂う候となりました。季節ならでは自然の香りは良いものです。

秋の香りで連想するものといえば、松茸でしょうか。食さずともせめて香りだけでも、と思ってしまいます。「においはマツタケオール、イソマツタケオール、ケイヒ酸メチル」と説明があるのは、『世界の化学者12か月』(2016年偕成社)9月の欄です。このページでは、9月に生まれ(1887年)亡くなった(1976年)スイスの化学者ルジカ(下)を紹介しています。

ルジカは「ジャコウの中に含まれている、かおりの化合物ムスコン、とジャコウのねこのかおりの成分、シベトン化学構造をあきらかにし」たばかりでなく、「ジャスミンの花にある、ジャスモンという化学物質をつきとめ」1939年ノーベル化学賞を受賞しました。

かこさとしふるさと絵本館がある越前市の「だるまちゃん広場」など武生中央公園では、例年より早く2018年9月28日から11月4日まで菊人形が展示されています。他では見たことのないような千輪菊、7本立ての大菊、懸崖や、動物や文字の形のトピアリーなど、1-2年かけて栽培されたものが所狭しと並べられます。

キクについて、この本の10月のページ(下)には「キク:花の色はアントシアン(赤)、カロチノイド(黄)。花のにおいは、ピネン、テルペンアルコール、しょうのう。」とあります。

10月には21日に生まれたノーベルの遺言によるノーベル賞が発表されますが、この本には、宇宙誕生から2016年までの「科学年表・科学の歴史」もあり、あとがきには制作にあたり、熱い思いでご協力いただいた多くの化学者の名前が列記されています。古今東西、研究に人生を捧げた科学者たちのおかげで私たちの現在の生活があるというわけです。

ところで、かこさとし」の遺稿「だるまちゃんとうらしまちゃん」(「母の友」10月号に掲載)をお読みいただけましたか。浦島太郎をモチーフにした読み聞かせにぴったりの作品です。『世界の科学者12か月』の「化学のちいさなお話」コーナーでは次のようにあります。

(引用はじめ)
「桃太郎、金太郎、浦島太郎をおとぎ話の三太郎、アボガドロ(Avogadro )、ベルセリウス(Berzelius)、キャベンディシュ(Cavendish)を化学の先覚ABCとよんでいます。
(引用おわり)

というわけで、この本の裏表紙(下)には、この三人の化学者が紹介されています。また、日本の化学者のすばらしい三太郎、鈴木梅太郎、長岡半太郎、本多光太郎についても本文で紹介しています。ちなみに表紙の六角形の三人はギリシャのタレス、アリストテレス、デモクリトスで紀元前の人々です。

読書の秋、文学も素敵ですが身近にある科学もお楽しみ下さい。

秋のお彼岸が終わりました。

今年の春のお彼岸には関東地方では季節外れの雪が降り、芝生や満開の梅に積もった雪を見て一句捻っていた加古でした。ちょうどその日は、小峰書店の編集者さんが『みずとはなんじゃ?』について打ち合わせに来られ、その編集者さんの担当だった『子どもの行事 しぜんと生活 3がつのまき』(2013年小峰書店)の彼岸のページを開いて雪景色を眺めながら思い出話しをしておりました。

そして2018年秋の彼岸9月23日に、加古は墓所の中に収まりました。生まれ故郷、福井県越前市の引接寺(いんじょうじ・上)です。15世紀に建てられたこのお寺は、京町という風情のある一角にあり、武生(たけふ)駅や「だるまちゃん広場」などがある武生中央公園から歩いて行ける所です。

山門を入って左側の一番奥、本の形をしているのですぐにお判りになります。(上)
山門の右側奥には、加古が通ったこのお寺の幼稚園、丈生(じょうせい)幼稚園(下)があります。

加古は特定の宗教を持っておりませんでしたが、お寺のご好意で、故郷のゆかりあるお寺で眠らせていただくこととなりましたことを謹んでご報告致します。