編集室より

2018/11/27

かぼちゃ

かぼちゃというと、ハロウィンを連想されるもしれませんが、筆者が子どもの頃は、シンデレラのかぼちゃの馬車を思い浮かべたものです。
(下は『あそびの大惑星 5 こびととおとぎのくにのあそび』1991年農文協)

かぼちゃが大きく描かれているのは、2018年10月に刊行された『だんめんず』(福音館書店)のこの場面。硬そう、そして美味しそうです。

日本では昔から冬至かぼちゃといって、夏に収穫したかぼちゃを冬のこの時期まで保存して風邪の予防に食べてきました。スーパーマーケットの野菜売り場にも冬至になるとそんなことがポップに書かれているのを見かけます。

『かこさとしの食べごと大発見 9 まま人参いもパパだいこん』(1994年農文協・下)には「とうじにはとうなす(かぼちゃ)をたべます。かぼちゃのことを「なんきん」ともいいますが、このように「ん」が2つつく食べものを食べると、病気にならないといわれているからです」とあります。

『こどもの行事 しぜんと生活 12がつのまき』(2012年小峰書店)にも、かぼちゃの煮物が食卓に並んでいる様子が描かれ、説明には「こんにゃくやユズをたべるところもあります」

『食べごと大発見 5 いろいろ食事 春秋うまい』(1994年農文協・下)では「冬至のゆず かぼちゃ」に合わせて「かぜひき はなづまりのくすり」として、ねぎゆ、しょうがゆ、きんかんゆ、みかんゆ、レモネード、だいこんあめ、黒豆汁などが並びます。

この本から引用します。
(引用はじめ)
12月8日は火を使うところは、「ふいごまつり」ぬいものをするところは「はりやすめ」といって仕事をやすむ日となっていました。
(引用おわり)(漢字には全てふりがながあります)

ふいごまつりは、もともとは旧暦の11月8日に行われていたもので現在の12月半ばにあたり、「はりやすめ」は、針供養と言われて2月8日に行う地域もあるそうです。そして12月8日で忘れてはならないのが、太平洋戦争開戦の日であるということです。

前出の『こどもの行事 しぜんと生活12がつのまき』には、この戦争について次のような一節があります。本文を一部ご紹介しましょう。

(引用はじめ)
戦争によって、おおきな犠牲を日本国民だけでなく、ほかの国々の人々にもおよぼしたことをよく考え、戦争のない真に平和な世界をつくるために、まず日本は真剣に平和な世界の実現を追求しなければならないとおもいます。
(引用おわり)(漢字には全てふりがながあります)

戦争中、食料難でお米の代わりに食べたのがサツマイモやカボチャ。「何が何でもカボチャを作れと言われ、狭い土地でも地面があれば耕し種まきをさせられた」と加古は語っていました。「イヤというほど食べた」ので、ずいぶん長い間、すすんでかぼちゃを食べることはありませんでした。

そんな時代のことを綴ったエッセイ「白い秋、青い秋のこと」(『子どもたちへ、今こそ伝える戦争 』2015年講談社)に添えられている挿絵に描かれているのは、お世話になった医師とかぼちゃ。

「何がなんでもの 南瓜も食わで 征くか君 」昭和十九年夏 三斗子(さとし)

今年の冬至、病気にならないことを願い、平和でかぼちゃが食べられる幸せを心して味わいたいと思います。

しばらく品切れ状態が続き重版が待望されていた『すばらしい彫刻』(1989年偕成社)が2018年11月に印刷されました。かこさとし自らが出版を依頼した唯一の絵本『美しい絵』(1974年偕成社)から15年を経て刊行された姉妹編ともいえるのが本作です。著者の言葉は、2016年7月16日に当サイト「あとがきから」でご紹介しましたので是非ご覧下さい。

かこさとしと彫刻との出会いは、いつ頃だったのでしょうか。
生まれ故郷福井県越前市で通っていた幼稚園は引接寺(いんじょうじ)という1488年に建てられたお寺にありました。総ケヤキ造りの山門には彫刻があるほか境内には古い石仏などもあり、幼い頃にこのようなものを目にしていたはずです。

東京に転居し1942年中学生の時、上野で開催されたレオナルド ・ダ・ヴィンチの展示会を見て驚愕したそうです。以来、ダ・ヴィンチに魅了され、興味が深まっていくのですが、その時に上野で見た彫刻のスケッチが残っています。西郷隆盛の像、ロダンの「考える人」や「カレーの市民」の歩む人の足元が、色が変わってしまった古いわら半紙に、せいぜい4-5センチくらいの小さなものですが鉛筆で走るようなタッチで描かれています。これだけ見ると中学生の手によるものとは信じがたい手慣れた線ですが、『過去六年間を顧みて』(2018年偕成社)を小学校卒業時に描いた加古ならば、合点が行く描きっぷりです。

『すばらしい彫刻』でとりあげられているミロのビーナスの思い出は、高校にあったミロのビーナス像に始まり、ゲートルを巻いた加古とのツーショット(『別冊太陽』に大きな写真掲載)が残っています。そして終戦後初めての五月祭、大学2年生だった加古はミロのビーナスの版画を作成(当ウェブサイトのプロフィール1946年に掲載)したほどです。

『すばらしい彫刻』に紹介されているエジプトのアブシンベル神殿・ラムセス2世の像や奈良の大仏なども加古が長年興味を持ち研究していたものです。1985年に『ならの大仏さま』(福音館・現在は復刊ドットコム)、1990年に『ピラミッド』(偕成社)を出版していることからもわかります。

そしてこの本の最後には、あの上野で見たロダンの作品が取り上げられています。『すばらしい彫刻』で古今東西のすばらしい彫刻とそれを作った芸術家、そしてそれを見て感動した加古里子と出会っていただけたらと思います。

福井県越前市のふるさと絵本館2階では展示替えを行い、2018年11月15日から2019年3月17日まで『かこさとし・むかしばなしの本 でんせつでんがらでんえもん』(2014年復刊ドットコム)の全場面を展示しています。この物語の主人公は欲深い、でんえもん。強欲な人というのは昔話でもよく出てきますが、加古の描く欲張りでんえもんの表情の微妙な変化と、どこからやってきたのか不明の謎の老人の鋭い眼光など、だるまちゃんやからすのシリーズ作品とは異なる絵のタッチは必見です。

本の帯には、加古のあとがきの言葉から引用してこうあります。
「自己に対しては、強いおそれとつつしみを抱き、そして、社会の歪みや制度の悪に敢然と立ち向ってほしいというのが、この物語に託した願いです。 かこさとし」
(あとがき全文は、当サイト「あとがきから」コーナーで2017年6月16日に紹介していますのでご参照ください)

加古は20代の頃から全国各地に伝わる民話に興味を持ち研究していました。むかしばなしの本(上)は5冊シリーズで、絵本館での展示は『かいぞくがぼがぼまる』『てんぐとかっぱとかみなりどん』に続き3作目となります。88歳の米寿を記念して全国の図書館に寄贈した絵本『矢村のヤ助』(2014年・非売品・下)も若い頃に創作し、川崎セツルメントで子どもたちに語り聞かせていた作品です。

今回の展示では、絵本館にほど近い、加古の墓所がある引接寺(いんじょうじ)の石仏にまつわる昔話もご紹介しています。冬の炉端で語られることが多かった昔話には、人々がお話を通して子や孫に伝えたかった大切な思いが込められています。今に生きる私たちにとってもそれは貴重なものに違いないはずです。

『たこ』は1975年 福音館書店より「かがくのとも70号」として刊行され、その時の折込付録には、加古による「たこ たこ 上がれ」と題する文章がありました。前半は、幼い日の忘れ得ぬ思い出が綴られ、後半はこの科学絵本に関してのいろいろが書かれています。2回に分けてご紹介します。

「たこ たこ 上がれ」 加古里子

幼い日のソーシキだこ

私の生まれたところは北陸福井の武生と呼ぶ小さな街。うかつなことに、先月若くして逝かれたいわさきちひろさんが、その同郷の先輩だとは知らないまま、その美しい、そして厳しいこまやかな筆跡を私淑しつつ、いつでもご挨拶できると思ってとうとうお目にかかる機会を失ってしまいました。私よりも、娘たちの方が悲しんだりなげいたりして、私の世間知らずを指摘したり、かえすがえすも心残りのことでした。

その奇しくも同じ町に数年後に生まれた私にとって、わずか7年間の短い生活は、後年雪を語り、ほたるを論じ、おちあゆや山鳥の紅をあげつらうことができる唯一の私のよりどころとなりました。もしその7年間が私になかったなら、子ども時代の遊びの良さや重要さを、今ほど強く自信を持って話しかけることができなかったでしょう。その幼い日の私の思い出のひとつに小さなたこの事件(?)がありました。

私はまだお寺の幼稚園児、ひとまわりちがう兄は中学校の最上級生で医学校への受験に追われていました。その兄がある北風の吹く日、それこそどういう風の吹きまわしか、私にたこを作ってくれたのです。からかさの骨を2本使った長崎のハタだこを正方形にしたような簡単なソーシキだこでした。手作りのたこの絵も字もかいていないまっしろなたこのことを子どもたちはそう呼んでいたのです。

(下の絵は表紙にある長崎はただこ)

ところが、兄の作ってくれたソーシキだこは、奇妙に頭を左右に振りながら、すいすいととてもよく上がっていくのです。久方ぶりに兄が相手をしてくれた嬉しさと、たこの上りの良いのとに、私はたいへん大喜びで、どんどん糸をくり出しました。たこは土手を越えてひろい日野川のはるかかなたにふらふらと小さく白く上がってゆきました。ところが、たぐり出していた糸の最後が、糸巻きにしばってなかったので、あっといったときには、もうたこは川向こうにくらげみたいな格好でひらひらとおちてゆきました。涙いっぱいの私をあとに、兄は自転車に飛び乗り、村国橋を大回りして追いかけました。目をさらのようにして向こうの土手をみても、数百メートルの川向こうには兄の姿もたこの影も、いつまでたってもあらわれません。待ちくたびれた私は、ひとりとぼとぼと向こうの土手に行ったものの、やはりたこもなければ兄の自転車も見つかりませんでした。もう悲しさがいっぱいになったとき、見知らぬ若い人が、「坊や、たこをとばしたんだろ?」と私の顔をのぞきこみました。こっくりすると、ほらそこにあるよと示し土手の草に、糸の先が結んであって、白いソーシキだこがさっきと同じようにちいさく冬の田の上を泳いでいたのです。

それからひとりでたこをおろして家へかえると、さがしくたびれた兄が、どうしてあえなかったのかなあと言いつつ、私のこんがらかした糸を文句を言いながらきれいにといてくれました。

たこというとき、私にとってはこの事件がいつも心によみがえってきます。それ以来このたこは私の得意の科目のひとつとなりました。もちろん、トラをかいたりノラクロをかいたりしてソーシキだこにはしませんでしたが、この独特な頭のふり方で上がるこのたこは、私にいつも兄とのぞきこんだ若い人を思い出させてくれたものです。

『たこ』は1975年 福音館書店より「かがくのとも」として刊行され、その時の折込付録には、加古による「たこ たこ 上がれ」と題する文章がありました。前半は、幼い日の忘れ得ぬ思い出が綴られ、後半はこの科学絵本に関してのいろいろが書かれています。後半をご紹介します。

「たこ たこ 上がれ」加古里子

なんでもたこに

こんどたこの本をかかせていただきながら、いつも私の頭のすみにはこのソーシキだこがちらついていました。よっぽどこのソーシキだこをと思ったのですけれど、私は思い切ってこのソーシキだこの亡霊をふりきり、新しいグニャグニャだこを紹介することにしました。その理由はふたつありました。

その第1は、ともかくたこというひとつの形や格式があって、それにのっとっていないと上がらないのではないかとか、みんなが見上げて注目されるのにはずかしいという気がつきまとっていてーーーこれは小さな子供の方がというか、子どもでさえというか、ともかく気をつかっていることを払拭したいと考えたことです。どんな形のものでも、どんな材料のものでも、どんなにまがり、どんなに凹凸があっても、風を受けて浮ぶに足る面積があるなら、すべてのものはたこになりうることを知っていただきたいと思ったからです。

すでに、こうした考え方に立って日本でも外国でも、様々な形態と機能を持ったたこが作られています。私の今考えているのは、「骨なし糸目なしのたこ」と言うものです。それを作ってあげるには、時間の余裕がほしいところですが、残念ながらそれがつくれないまま、きっと今にどなたかがそれを先に発表されることでしょう。

さてもうひとつの理由は小さな読者にも揚力とか後退角とかの説明でなく、しかもごまかしのないたこの上がるわけを知って欲しいと考えたからです。その途中の産物として、前記した「骨なし糸目なしたこ」が出てきたわけですが、目に見えぬ空気の流れと、その濃淡や早い遅いことの差からくる上がるわけを、実現的に知ってもらういろいろな試みをこれからも心がけていきたいと考えているところです。

じっと機をうかがえ

さて最後にこのたこを読んでつくって遊んでいただく際、ひとつふたつの御注意とお願いを記しておきます。

そのひとつは、タコを作るとき、できるだけ丈夫で軽い材料を選んでいただくとよいということです。グニャグニャだこの場合、プラスチックシートは、いわゆるビニール風呂敷やトイレットペーパーの袋や壊れたプラスチックかさなどを使ってみましたが、いちばんてがるでよかったのは、プラスチックごみぶくろでした。それに骨は竹から切り出し小刀でつくっていただくのがいいのですが、もしなければ学校のそばにある文房具店や模型屋で、竹ひごを求めてください。それもないときはどうする、といわれる方がきっとおありだと思いますが、昔の子どもたちが皆そうであったように、カラカサのこわれるのをじっと何年もまちつづけていたように、そしてだれかの家の納屋にこわれたカラカサがあったときくと、子どもたちは手を変え品を変えそれらをもらうべく涙ぐましい努力を傾けたように、そうした熱意と努力が欲しいところだと思います。この熱意と努力を持ってじっと機をまっているならば、必ず竹ひごをうっている店に巡り合われることでしょうし、程良いごみぶくろをゆずってくださる方も出てくることでしょう。

今ひとつ、たこを上げる際、町の中、道路、鉄道や電線のあるところ、飛行場や文化財の建物や大木のあるところはさけて下さい。種々の事故がおこった場合、当人やその家族だけでなく、多くの人の迷惑になるからです。

さてこうして空高くて上がったたこは「飼い犬の顔は、その主人に似る」という西欧の諺のように「上がったたこの顔はその主人に似る」と私は考えています。こせこせしたり、ゆったりと上がったり、おじぎばっかりしたり、ちょっとよろめいたり、ともかくどうぞ、子どもさんといっしょにたこあげをおたのしみください。

たこ たこ 上がれ
心に 上がれ

7人の子どもたちが次々に楽しむおにあそび。本を読んでいるうちに、いつの間にか自分も一緒になって遊んでいる気持ちになるから不思議です。もう、おにごっこするしかない。
一見すると地味な色合いの画面ですが、そこにも仕掛けがあるようです。

この本は1999年に「かがくのとも」として刊行、その後2013年に「かがくのとも特製版」となりましたが、この度は「かがくのとも絵本」として新たに出版されました。1999年の折り込み付録「遊び世界での子どもの力」をご紹介します。

遊び世界での子どもの力 加古里子

鬼遊び鬼ごっこなどと呼ばれる遊びは、世界中の各国各民族で愛好されているので、その魅力の源を知りたくなり、日本での観察と収集を40年ほど続けてきた末、ようやく次のようなことを知りました。

日本の子供たちの鬼遊びは、大きく3つに分類できて、第1のA型は「逃げる/追う/つかまえる」という基本的な形と、その変型の約100型です。走力脚力の競技なら、その優れたものや年長児だけが楽しいだけに終わるので、いかにその能力差、体力差を埋め、鬼にも逃げる側にもうまいハンデにより拮抗(きっこう)させるか、どういう苦心が、こんなに多くの種類を生みだすこととなりました。大人のゲームにも、ときおりこうしたハンデをつけるやり方がありますが、今月号のなかの「タッチおに」や「つながりおに」のぶくちゃんのような"みそっかす"まで一緒に楽しもうというのは、子どもの世界だけの工夫です。

第2のB型は、小石・木片・なわ・ボールなどの道具を用いたり、場所やまわりの状況を利用するもので、約180型あり、今月号にでてくる「いろおに」「はしらおに」「しまおに」などがこのなかに入ります。しかし、場所を使うものでは、高所、階段、コンクリ、手すりや欄干など、子どもたちがいかに狭隘(きょうあい)、劣悪、不敵な遊び場しか与えられていないかを反映していることにも気づかされます。ごく一部の大人の遊びのため、広大な土地を芝生にしたあげく、不良債権で銀行がつぶれる期間、子供たちは文句や座りこみはおろか、ぐちさえいわずわずかな空間を利用していたのが、多数のB型に結実しています。

第3のC型は、数人のグループごとに対抗したり競いあったりする集団のもので、逃げる「どろぼう組」と、追う「警官組」のいわゆる「どろけい」や、他の遊びや遊戯と連結融合したもの約160型です。今月号の「くつとりおに」は、「ひよこまわり」と呼ばれる図形遊びと「くつかくし」が混合したもので、このほか、「花いちもんめ」など歌遊び系も含まれ、多彩です。

以上のように、子どもたちはA、B、Cの3型のなかに自分たちの得た力と意欲をそそぎ、自ら生きる喜びを示しているので、あわせて楽しんでいただければ幸いです。

この作品は、2001年4月に福音館書店「かがくとのも」として刊行されたものを今回限定出版されたものです。是非この機会にお読み下さい。

尚、2001年刊行時の折り込み付録に、以下のような著者の解説がありました。題名は「いい子時代の遊び」で、「いい」というところに傍点がついています。その種明かしは文中にあります。
(引用はじめ)

いい子時代の遊び 加古里子

いい・・子時代の遊び

私は北陸の山と川のある小さな町で生まれ、幼少時代を過ごしました。3人兄弟の末っ子でしたから、遊び仲間では一番小さい「いてもいなくてもいい・・子」のひとりでした。

そのころの年長の子は、学校が終わると、10人ほど集まって遊びます。雨が降ればどこかの納屋に入り込んだり、蹄鉄屋の軒先で、ひづめの手術(?)をのぞいたりしましたが、ほとんどはちょっとした広場か道端での外遊びでした。

就学前のいい・・子たちは、そうした兄ちゃん姉ちゃんたちの遊びに入れてもらうのがとてもうれしいことでした。この遊びの中に入れてもらうのを、この地方で「せえて」と言いましたが、そんな大それた言葉を言って入っていくのは、いい子でない年長児でないととてもできません。それでいつもドキドキして、こんど言おうか、もう一回終わったときにしようかとうろうろするのが常でした。途中から入るのではなく、はじめからいれば「自然に・・・」遊べたので、ずっと早くから皆が学校から帰るのをまっていたり、兄や姉のうしろにくっついていたはずですが、ドキドキうろうろしてなかなか「せえて」が言えなかった思いだけが強く残っています。

こうしてようやくその日の遊びの中に入った後は、どうしてこんなに楽しくて面白いことが続くのかと言う至福の時間でした。昨日と同じ鬼ごっこなのに、昨日も面白かったが、今日のほうがずっと楽しい。それも誰かが土手のチガヤを食べたりすると、たちまちおいしいチガヤさがしに夢中になると言う、変化と発展の連続、心も身も陶酔の毎日でした。

今回の『わたしもいれて!』を描くにあたって、次々発展していく遊びの様子と、それに夢中になるいい・・子やそうでないこの思いをもり込みたいと、昔のようにドキドキしながら努めてみました。見ていただければ幸いです。

(引用おわり)

澄み渡った空を見ながら向かった先は福井県越前市。絵本館で展示中の『あさですよ よるですよ』は11月11日までです。11月12日から14日までは展示替えのため休館、15日からは『でんせつ でんがらでんえもん』が展示されます。

武生中央公園、だるまちゃん広場では遠足のお子さんたちものびのび楽しそう。
菊人形展が開催中です。菊の香りが漂って、去りゆく秋を惜しむかのように菊花が色鮮やかに咲いています。

ヨモギに接ぎ木して枝を分けた先に見事な花をつけた千輪菊(下)は、2年がかりで作られるそうです。

一つの枝から複数の色の花をつけた菊、懸崖や盆栽、七本立てなど凝った仕立てのものが数々並び、古くから続く菊人形の歴史が感じられます。この展示は今週末11月4日までです。

日没が早くなり、「だるまちゃん広場」ではライトアップが始まりました 。点灯は夕方6時から10時まで、期間はクリスマスまでで、その頃には雪が降るとか。朝晩めっきり気温が下がり冬がそこまできている気配の越前市でした。

今年もあと2ヶ月となってしまいました。『こどもの行事 しぜんと生活 11月のまき』のあとがきをご紹介しましょう。

七五三の行事

(引用はじめ)
江戸時代ごろから、あかちゃんは三歳になるとそれまでそっていた髪をのばしはじめて、こどもとしてあつかわれるようになり、五歳になると男女とも正装をし、七歳になると女子は帯をしめるなどしていわいました。これらの習慣がもとになって「七五三」の行事となりましたが、こどもに対する社会的な考え方がまだ定まっていなかった時代に、現在のこどもの発達や教育の立場からみて、きわめてただしい、適切な方法が行事となっていたことは、たいへんよろこばしいことです。
先祖の人たちの科学的な愛情をまなびたいとおもいます。
(引用おわり)
本文は縦書き、漢字には全てふりがながありますが、ここでは省略しています。

上の絵は『だんめんず』の最初のページの一部です。この絵本の折り込み付録にある加古の文章、「だんめんず」と「かがくの本」の後半、その2では科学の本についての加古の持論を展開します。加古の投げかけた疑問と指摘に対し、半世紀近く経た現在、私たちはどのように答えることができるでしょうか。

「だんめんず」と「かがくの本」 加古里子

疑問と批判

さて、この「だんめんず」に取り上げた内容は旧制高等学校理科甲類の連中でさえ敬遠してはばからなかったむずかしい課目の1つですし、その図学の中でも後期に初めて出てくる高度の章に関係しているものです。

したがってここで、どうして小さい子どもたちに、そんな難しい図学とか立体とかのことを教える必要があるのかという疑問を、皆さまがたはお持ちになるだろうと思います。私が育った戦中時代より世の中が大いに進んだとは言え、昔の高等学校の学課を学令以前の子どもが主な読者である「かがくのとも」に書くのは少しどうかしてやしないかという批判が起こるでしょう。小さな読者のためには、もっとそれにふさわしい題材を選ぶべきだし、教科書を見ればわかるように、子どもたちに与えるかがくの本もやはりその発達段階に応じて3才児は3才児なりに、小学1年は1年なりの題材であるべきだというご意見がきっとわき上がることだと思います。

このような疑問や意見に対し、私も大いに論じつくしいろいろとご教示をいただきたい希望をもっているのですが、ここではとりあえず次の2つの事柄を結論的に申し上げることといたします。

教科書とのちがい

まず第1の点は、小さな読者であれ、高校生向けであれ、「かがくの本」や「科学読物」は、理科の教科書とは違うものであると言うことです。

教科書は、どんなに相手の子どもがいやがろうが好きになれなかろうが、その将来にそなえ覚え、身に付け、蓄えておかなければならない事項を記載したものであり、それをもとにした応用能力の修練のため、体系的に整理集積された手引きですから、学習目的の完成のために学校や学級という場と教師と言う指導者によって補充され補完され結実されるよう配慮されている性格の書籍です。

一方「かがくの本」や「科学読物」は、ほかの読み物と同じようになんらの強制力の義務責任もおわぬまま、ただあるのは読者の好みによってえらばれ、よまれ、すてられていくものです。幼児向けのものを小学生が読んで悪いことはありませんし、中学生向けの本を小学生が熱中することが珍しいことではありません。教科書では体系的な順序が乱れたり、それへの配慮がない事は大きな欠点となりますが、「かがくの本」にあっては、考古学の方を先におもしろく読んでしまってから、あとで植物の本を読むこともあるのです。しかも原則としては親やおとなから解説してもらうことなく、子ども自身の力で読み、たのしみ、そこで完結されることを目標としている本形式の印刷物です。

以上のように教科書はそれ自体の目的と任務、特質を持っており、子どもたちの読み物とはねらいや効果、長所がはっきり違っている異質な書籍なのです。

実を言うと、私は現在の教科書をわりとよくよんでいて、大いに問題があると考えていますし、特に理科の教科書に対してはごく1部を除いて相当な批判をいただいているものです。しかし、だからといって教科書の代替を「かがくの本」ですることができませんし、そうすべきではないと思っています。既刊の私のいくつかの「かがくの本」を理科の授業に使っていただいた貴重なお手紙をたくさんいただいていますが、この事の功罪は私にあるのではなく、ひとえに熱心な現場の先生方の協力のたまものであると同時に、その根本はそうした補いを余儀なくさせている教科書制作の当事者と管理当局によって欠陥を矯正してもらわなくてはなりません。教科書はその責任と任務の中で良いものにかえてゆき、「かがくの本」はその範囲の中で1冊、1冊を完成して行かなければならないと考えます。

(辛口の文ですが『だんめんず』最後の場面は下のように甘口です)

題材は何が良いか

第2の結論は、「かがくの本」の対象となる題材は何がふさわしく、何がだめだという事はなくて、どんなにむずかしく複雑なものでも制限はないということです。幼い子供だからといって、いつも植物や昆虫だけを対象としていることはおかしいということです。子どもたちをとりまく世界はジェット機がとびかい、公害の煙がたなびき、政治や経済のあらしがテレビや父親の疲れを通じてもちこまれている生きた世界なのです。子どもたちはその中で彼らなりのせいいっぱいの感覚を働かせ、知恵をたくわえ工夫をこらしているのです。そうした子供たちの要求にこたえ、その欲求の真に求めているものに対応していくのが「こどもの本」ということになりましょう。ですから対象を規定するものはただ2つ、子どもたちのいだいている要求をみぬく目と、それを作品として結実させ、子どもたちに満足をあたえ、子どもたちの要求を次の高いものへ転化せていく作者の力以外にありません。

もし子どもたちが望み、作者に力量さえあれば、電子顕微鏡や分子や原子、DNA、さてはベトナム戦争と言うことも消して幼児の対象からはずすべきではないと私は考えます。逆に以上の原則をはずして、子どもたちが喜んでいるという皮相面だけで、スーパーマンやゴジラまがいを相変わらず追う態度や、子どもたちの要求でなくほかの要求に従うならば、性教育における「ワレメちゃん」のように決してそれは、子どもたちの発展に資することもなく、子どもたちにも支持される事はないでしょう。
* * *

限られた紙面ですし、充分意をつくす時間のないのが残念ですが、ようやく最近、わが国で子ども向けのかがくの本が数多く出版されるようになってきたことを喜ぶと同時に、いま最も欠けているのは前記した2点の指摘からおわかりのように、まだまだ科学読物に対する評論の水準がきわめて低く遅れていると言う事実です。それを高めるのはすぐれた専門家を輩出させてゆく読者一般のかしこい知恵以外には無いのです。