編集室より

作品によせて「ゴム長、長靴、レインシューズ」で書き漏らした加古のエッセイについてつけ加えておきます。

その題名は「長靴ー流れていった私の戦後」。1982年10月22日号「週刊朝日」に〈値段明治大正昭和風俗史〉として掲載されたものです。

北陸雪国育ちのかこさとしにとって、幼い頃の冬の思い出は長靴とともにあり、東京へ引っ越してからは長靴を履かずに過ごします。しかし戦後の物資がない時代、またしても長靴が必要な状況になり、また別の思い出がうまれました。

このエッセイには時代や、著者の心持ちなど様々な要素が盛り込まれ短いながらかこさとしの半生が書き込まれているかのようです。『別冊 文藝 かこさとし 人と地球の不思議とともに』(2017年河出書房新社)に再録されています。

いよいよ梅雨入りで、雨の日の3点セット、傘、長靴、そしてレインコートが活躍しそうです。加古流に言うと、コウモリ、ゴム長、カッパ。

ゴム長はゴム長靴。そう、だるまちゃんのお気に入りです。
『だるまちゃんとかみなりちゃん』(1968年)のこの第1場面、前扉につづき長靴姿で登場します。以来、うさぎちゃん、とらのこちゃん、だいこくちゃん、てんじんちゃんとお友だちになるだるまちゃんはいつでも黒い長靴姿。

かこは、雪国生まれですから、長靴はずいぶん履いたことでしょう。当サイトのプロフィールに掲載している、木馬に乗っている幼少時の写真を見ても足元は長靴です。雨や雪のお話では当然長靴で登場するので、それがだるまちゃんの一つのスタイルとして、てんじんちゃんまで続いていたのかもしれません。

『だるまちゃんとやまんめちゃん』(2006年)の表紙では運動靴ですが、この時はサッカーボール片手に遊びに行くのですから長靴は不向きですね。

話はそれますが、この前扉で、だるまちゃんの妹、だるまこちゃんがかかえている本の題名は、手で隠れている部分があるものの「むかし やまんば」と読めます。やまんめちゃん登場を示唆するようです。

おかあさんは手にコショウのボトルのような、あるいは塩でしょうか、を持っていて、この二人はスリッパを履いています。やまんめちゃんのおばあさんにお見舞いのネーブルを届けるあたりといい『だるまちゃんとてんぐちゃん』(1967年)のちゃぶ台から比べると現代風になっています。

長靴の話に戻りましょう。『やまんめちゃん』(下)でも、雨の日には、やっぱりいつもの長靴です。

やまんめちゃんの次作『だるまちゃんとにおうちゃん』(2014年)では、お寺の境内で相撲遊びに興じること、この物語の時代背景が「作者のことば」にあるように戦後間もない頃ということもあり素足で力くらべをしますが、長ぐつ姿は健在です。(下・松の葉で葉っぱ相撲)

2016年刊行の『だるまちゃんと楽しむ日本の子どものあそび読本』と『だるまちゃんしんぶん』では長靴と運動靴のだるまちゃんが見られますが、2018年の三作『だるまちゃんとはやたちゃん』『だるまちゃんとかまどんちゃん』『だるまちゃんとキジムナちゃん』では長靴は見当たりません。

雨の季節、長靴を履いたら、どうぞだるまちゃんを思い出してください。

偲ぶ会については多くの皆様をお迎えすることが難しく、大変残念ですが、ご臨席は生前に加古にご厚誼を賜わった方々で調整中です。

2018年7月7日から9月9日、川崎市市民ミュージアム企画展「かこさとしのひみつ展」が開催されます。その期間中に市民ミュージアムに「いつまでも いつまでも かこさとしさん」コーナーを設けますので、どうか故人をしのんでいただけましたら幸いです。


詳しくは以下をご覧ください。

https://www.kawasaki-museum.jp/news/12055/

かこさとしが自らの絵本創作について語った貴重な一冊、『絵本への道』は写真や図版も豊富で絵本作りを目指す方にも参考にしていただける内容です。
長文なので2回に分けて掲載します。尚、本文は縦書きです。

大きな誤りと感謝 ー1ー

思い違い判断ミスは、それこそ日常数え切れないけれど、恥ずかしいことに私はこれまで重大な過誤を三つおかしてきました。

その第一は少年時代、軍人を志し、一途に心身を鍛え、勉学にはげんだと言う誤りです。家庭の状況や時代の流れに託するのは、卑怯暗愚の至りで、幸か不幸か近視が進み、受験もできず、軍人の学校に入学できず敗戦となったため、禍根が拡大しないで済んだものの、世界を見る力のなさと勉強不足は、痛烈な反省と懺悔となって残りました。時折訪れるアジア各国でのご挨拶は、まず私のこのお詫びと反省で始まるのを常としています。

第二の誤りは、この第一の過ちを取り戻す滅罪の計画を探り、その実現には周囲への依存はもちろん、家族に困惑をかけぬこと、換言すれば個人的秘事として処理しようとしたことです。はじめ漠としていた悔悟の計画は、やはり自分の性格に合う、自分の力の及ぶものでなければと気づき、親を捨てる勇気もないので、生存中は親孝行のまねをし、優良社員でなかったものの進んで楽しく勤務しながら、秘かに計画の具体案を練り、やがては文化教育科学社会の分野にまたがる約ニ百項目の目標に絞って行きました。そして対処するに必要な基礎知識と綜合判断力を身に付ける修行として、演劇をはじめとする実技実践と学習補強ができるよう生活姿勢を変え、集めた情報文献と実施装備の倉庫兼工場として自宅建設を目指し、資料分析と実験処理の工作企画場として床下から天井裏に至る改造改修を、前述した方針でゆっくり無理をせず実行してきたと思っていたのに、幼少の子供たちからは「これまで1度も遊んでもらったことないもん」と家事にうとかった点をまんまと見抜かれていた上、数年前に点検したら、目標項目の半分もまだ実現しない有様でした。達成できぬ計画をたてた無知無謀無為の過ちとなって、再び悔悟に追い立てられている所です。

第三の過ちは、戦争で死ぬべかりし生命を残してもらい、親や妻子に人としてなすべき最小事をした残余の時間をおよそ四万時間と算定したことです。早い話が第一の誤りに二十年を使い、第二の間違った計画準備に二五年で、合計四五年間を費やしたものの、以後二十年生きることができれば一日八時間年二千時間だから四万と言う時間がこれまで受けた社会や人々への恩返しに使えるだろうと考えたのです。四万時間は相当雑な余裕のある計算であるし、私自身人並みに遊び、騒ぎ、楽しむのが好きなタチで、催しをやるとなれば徹夜してお手伝いしたり、美人に誘われれば喜んでお茶のお相手をするのが、前記四万時間に食い込んだ時は、必ずどこかで取り戻すようにしてきたはずなのに、とうに四万時間を使い果たし、しかもさらに10年近く延長して長生きさせてもらっているのに、微々たる事しかできていない体たらくです。これではこの先、何万時間生かしてもらっても到底ダメではないか。優れた才を惜しまれながら死んでいった友人や先人に比しベンベンと長らえ時間を空費している重大な誤りであるのは明白です。

バナナからつくられる紙のことが最近話題になっていますが、2001年学研から出版された『ミラクル バナナ』という絵本は、バナナの茎の繊維を利用してつくられた紙でできており、かこさとしは文章を提供しています。

この本は、日本のODA(草の根無償資金協力)によりハイチ大学で実施したバナナ紙製造セミナーがきっかけとなり、ハイチやジャマイカの大使館、日本の大学や和紙職人らによるバナナ・ペーパー・プロジェクトの一つとして生まれたものです。

ハイチの人たちによる作と絵を元に日本語の文章をかこが担当、帯にはこうあります。

バナナのかみでできた絵本

(引用はじめ)
バナナといえば、おいしいくだものや、甘い香りのキャンディだけではありません。バナナから、きれいな紙ができるのです。さあ、バナナの絵本のすばらしさをぞんぶんにあじわってください。
加古里子(かこさとし)
(引用おわり)

また、以下のような、あとがきにかわる短いメッセージを書いています。

世界の子どもたちへ

(引用はじめ)
絵本をひらくと、自然の香りがするでしょう。やさしいおいしさに、引きこまれるでしょう。輝く太陽の、色と光につつまれるでしょう。
(引用おわり)

あとがきの後半です。下の絵は『あさですよよるですよ』の一場面。

大きな誤りと感謝 ー2ー

こうした中、私がよく受ける事は、何故お前はこうした(変わった、或いは余計な) 仕事(というか活動)をするのか?と言う質問です。不徳の至り、第一の誤りから発し、次々誤りを重ね余計なことをするに至ったいきさつは前記の如くですが、もし最初の過ちを犯さなかったとしても、当然何故自分は生きているのか、生きようとするのか、裏返せば何を生きがいとし、何のために死を甘受するのかを、一人前の自立した人間となる関門、成人の通過儀礼として、青年期には求めたことでしょう。他の方々はそんなそぶりを外には少しも漏らさず、それぞれ自ら決めた道を着々進んでおられるのに、もはや老人と言うより化石人に近いのに、今なお青臭い迷いや追及に明け暮れているのは、我ながら進歩のない限りです。しかもそんな私に対し、有り難いことに多くの方々、特に子ともさん達から、日々お便りや励ましをいただきます。私の目標の一つ「人間幼少期の綜合把握」のために伝承遊びを蒐集する間、子ども達から多くの示唆と教訓を得てきましたが、さらに私の作品を読まれた子どもさんから、かわいい絵や覚えたての大きな字で、直接いただく感想やご意見は、作者冥利につきる以上に、月に何度も落ち込むユウウツ期の私を救ってくれる天使となっています。たとえば「やさいのおんなのひとがつれているばったが、こいぬのようでおもしろい。かってみたい」とか「ぞうのおかあさんがしぬところでいつもなみだがでます。とてもかなしくて、だから、すきで、なんどもよんでもらいます」「うみのことは、まだよくわかっていないとかいてありますが、このほんはずいぶんまえにかいたので、いまではけんきゅうがすすんで、みんなわかるようになりましたか」という率直な、私の心底にひびくお便りはくじけそうになる私を支え、力を与えて下さる糧となってきました。

(上は「あとがき」本文中お子さんからのお便りにある、ぞうのはなし『しろいやさしい ぞうのはなし』(2016年 復刊ドットコム)表紙。)

そして今度、そんなお前の誤りだらけの過去と思い迷った来歴をまとめてみないかという申し出をいただきました。若い頃私が夢見ていた絵本の世界を、最初に現実のものにしてくださった出版社が、再び老人の思いを叶えてやろうというのです。あまりに過分な申し出に恐縮、ご辞退申し上げたのに、原稿は書かなくても、テープでおこして「聞き書き」の内容をワープロで打ち出すのでそれを点検すればよいからと退路を絶たれ、遠路茅屋までこられて、どうぞ気楽に思いつくまま話してくださいと上手に誘い、聞き手が少なくてはと数人つれだった来られたりすること十数回、三年の長きに及んだ結果、順序系統だった「絵本塾講義録」になったという訳です。せっかくお読みくださる参考にと、資料現物を極力そのそろえる様しましたが、一部紛失忘却でお目にかけることができなかったのが唯一の心残りです。

願わくば、私の如き誤りをくり返すことなく、そして眠れぬ夜を何度も迎え求めても達しえなかった真実と言う彼岸を、どうぞ読者の清新な力と広い心で取得し陵駕していただきたく祈念し、感謝をこめてあとがきとします。

一九九九年三月


5月は祝月? 悪月?

(引用はじめ)
5月はこいのぼりや武者人形の飾りなど、男の子の成長をいわう行事の月とされています。しかし、中国から伝わったのは、「5月は悪月なので、邪気やけがれをのぞくため、薬草をとりヨモギやショウブを軒につるす」ということでした。

いっぽう、5月は田の神さまにまもってもらうため、たかい棒の先にスギの葉をつけ、田植えの目印にしていました。

これらのことがいっしょなって端午の節句の行事となり、3月のひな祭りが女の子のいわいごとであるのにたいして、男の子のいわいごとなりました。

ちまきなどのたべものも、薬草の類で、その由来は屈原の死をいたむ、かなしい伝説ですから、5月は健康にいっそう注意するようにしましょう。
(引用おわり)

尚、本文は縦書きで全ての漢字にふりがながあります。

まもなく迎える5月には母の日、6月には父の日がありますので、「まま、パパ」が題名に入っている「かこさとし 食べごと大発見9」のまえがきにあたる「この本のねらい」とあとがきをご紹介します。

この本のねらい ご整腸への感謝

(引用はじめ)
子どもたちの食事の嗜好調査によると、野菜は嫌い、低位の部になっています。そこで緑黄野菜は体に良いとか、ビタミンやミネラル、さては繊維質は胃腸の働きを助けるとか、整胃整腸作用が美容のもとだと言った論ですすめようとする方策がにぎやかです。

結構なことですが、食事は理屈ではなく、食べるのは当人の意向です。だから例えば、畑仕事が手間取り、とうに正午がすぎた時、もいで塩も何もつけずに食べたきゅうりが満足をもたらすように、空腹とおいしさ、もっと突き詰めれば正しい全身の運動、筋肉の活動と、適切で巧みな調理が、野菜のご馳走の基本なのではないのかと留意して、特に美味しく楽しい野菜の本にするよう心がけました。

どうぞよろしく。ご整腸(!)ありがとうございました。
(引用おわり)

あとがき

(引用はじめ)
食卓の皿やおはちに、肉や魚や、卵のないときがあっても、野菜は必ず出てきます。ことさら野菜料理とか、葉っぱのおひたしを大皿山盛りと言うことはなくても、みそ汁の中や、あぶらげの横にそえられているのが野菜です。

お料理の主人公としてでてくるのはまれですが、脇役としていつもひかえ目であるが、しっかり役目を果たしている野菜は、太陽と空気、そして大地が育てた産物です。脇役でつつましくひかえている野菜は、そうした大きな力、みずみずしい活力、無限の恵みを毎食卓、少しずつ運び、伝え、はげましてくれているように思います。

その白やみどりの手紙や歯ざわりの良いメッセージを、どうぞこれからもよく味わって、よんでください。
(引用おわり)

4月23日は「子どもの読書の日」そしてその日から5月12日までは「こどもの読書週間」だそうです。
福井県立ふるさと文学館では、これにちなみプロローグゾーンにて、「ふくいゆかりの児童文学」展を開催中で、かこ作品の中から『未来のだるまちゃんへ』の表紙複製原画を展示しています。

4月からの新しい環境に緊張がちな日々、幼い頃にお気に入りだった絵本を読んで、心を落ち着けるのはいかがでしょうか。 もちろん、新しい分野の本に挑戦するのも素晴らしいことです。

子どもにとって、外遊びが大切ですが、一日のどこかで本を手に取る時間、習慣を身につけることは大きな意義のあることに違いありません。

下のような場面から始まりますが、春の夜空のお話です。
「あとがき」をご紹介します。

(引用はじめ)
夜空の星を見て、なぜ光っているんだろうと考えたり、これから宇宙や星のことをうんと知りたいなぁと思っているみなさんに、この“星の本”をおおくりします。はじめて読む人や、ちいさい子どものための、やさしくてたのしい、いい星の本を見ていただきたいと、ながいこと、しらべたり考えたりしてきました。

さいわい藤井旭さんが、素晴らしい春の星の写真をたくさんとってくださったので、ようやくそのねがいがかなえられました。北斗七星や“たすきのちかちゃん”をおぼえたら、外へ出て春の大三角形や、スピカの星をみつけて、星をすきになってください。
(引用おわり)

“たすきのちかちゃん”とは一体なんでしょうか。かこさとし流、お子さん向けのあるものの覚え方の出だしです。この後に続きがあるのですが、ヒントは、最初の”た“は“太陽”の“た”です。