編集室より

『からすのパンやさん』のお気に入りのパン投票で一番多くの票が集まったのは、「かめパン」でした。古くから占いにも使われたかめの甲羅、鶴亀などおめでたい生き物でもありますね。

「かめパン」のご紹介では触れませんでしたが、加古が訪れたセイシェルという国を舞台にした『あおいしまのゾウガメどん』(1989年偕成社)という絵本があります。そのあとがきをここでご紹介しましょう。

あとがき かこさとし

(引用はじめ)
アフリカの東、マダガスカル島の北のインド洋に、セイシェルと呼ぶ島々があります。
美しい海と素晴らしい陽光の自然は、ヨーロッパの人の憧れの島となっていますが、アフリカ本土から離れて進化した珍しい生き物が、ゆったりとすんでいるので、熱心な研究者も一度は訪れるところとなっています。
今から8年前、この島の美しさに感激した私が、この島国の、かわいい動物たちをモデルにして、いつまでも美しく静かであるよう祈って作ったのが、この物語です。
国章にも描かれている動物たちの本当の名は、長くて難しいので、短い親しみやすいものにかえておきました。
(引用終わり)

前回に続き『私の子ども文化論』』(1981年あすなろ書房)から「ダムの絵本づくり」後半です。

(引用はじめ)
何百ページの書物なら、あるいは一、二ページ力の抜けたところがあったり、間違った見解が散見しても、読者は全体の流れから真意をくみとってくれるだろう。だが、「たかが」十ページの絵本では、一ページどころか、数行数点の文字によって、読者への呼びかけが変わってしまい、画面の小さな隅の描線や虫の有無によって、大きく意味がかわることとなってくる。

あの紙芝居のように、一場面は、どうしても前と後ろをつなぐのに不可欠であるように、絵本の一場面もそうやって形づくらねばならぬだろう。そのうえ絵本は紙芝居と違って、本来なら読者が手にもち、せいぜい四〇〜五◯センチの距離で、必要なら一つの場面に何十分もかけ、ある場面では、次の場面を早く見たい衝動をおさえ切れずに、さっと見やるーといった大きな差を持っている。この紙芝居との差同を考え、画と文を統一させることに、私は心がとらわれた。

ちょうどその頃、岩波映画で佐久間ダムの記録が公開された。私はその映画を前後三回見に行った。一回目は映画と言う形のなかで、監督が何をえがこうとしているかをつかむため、二回目は画面と画面のつながりや切り替えを読み取るため、最後はうつされたダムのこまかなようすを知るためであった。映画館のくらやみの中で、私はメモの鉛筆を走らせ、まだダムというものは、絵本でえがきうる余地があることを強く感じ、小さな興奮を覚えながら帰ってきた。

こうして今から思い返せば、恥ずかしい限りのはじめての絵本『だむのおじさんたち』が世に出ることになった。
しかしこの時、探し求めた絵本作りや創作方法は、今もほとんど変わらずに私の原型となってしまった。それは要約すると、①徹底して関係する資料を可能な限り集め、そこから全体像を把握すること、②最も本質的な、独創的な、発展的なものを主題となるよう選定すること、③その主題を詩情やユーモアを交えて、的確に表現伝達するため、アイディアや工夫をめぐらすのに、可能な限り時間をかけることーの三点であった。
(引用おわり)

『私の子ども文化論』(1981年あすなろ書房)は、戦後の子どもとそれを取り巻く日本やヨーロッパなどの状況を解説。特に、加古自身の歩みを子ども時代から振り返って語りながら、児童文化や親と子の遊びについての考えを248ページにわたり述べています。

その中にデビュー作『だむのおじさんたち』についての項目がありますので、一部省略しますが、ご紹介いたします。
冒頭の「松居さん」とは当時福音館書店編集長であった松居直氏で「時代にあった絵本を作ってみませんか」と声をかけていただき、加古の絵本への道が始まることになりました。

(引用はじめ)
松居さんは私に本を一つかいてみないかとすすめられた。あれこれ思いまどったあげく、私は「造船」か「ダム」に題材を求めることとした。船の題材は、当時、破竹の勢いで、日本の造船技術が、世界に再進出しだした頃であったし、セツルメントにくる子どもたちの親たちの多くが、日本鋼管や日立造船といった大企業に勤めていたから、その生活を背景に書いてみたいと言う創作意欲を持っていたためであった。

松居編集長はダムの方を選ばれた。私は本屋はもちろん、いろんな図書館を訪れて資料をあさった。ダムを建設する工学的な問題や工作方法は大体知っていたつもりだったが、こうした調査や資料あさりの間に、ダムは単に土木とか建設事業の問題だけでないことを知ることができた。ダムはなぜ作るのか?どうして作らなければいけないのか?ダムというものは、日本の子どもたちとどういう関係を持っているのか?ーなどというさまざまな、大きな問題が次々と出てきた。水主火従から火主水従に変換している電力状況、日本の水資源のひ弱い断面、その裏に潜む、日本のエネルギー問題、それに湖底に沈む村の保証やゆがめられていく農村の実体、その上、最新の科学技術の粋を集めて行われるダム建設の労動が飯場とか「組」とかよばれるきわめて封建的な組織にたよっているようすなどが、どうしても「ダム」という題材の背後にはあることを私ははっきり知らなければならなかった。

たかが十一場面の絵本一つにーと思われることだろう。たしかにあるいは専門の方から見るなら、そんなに資料を集め、調査し、時によると、ダム設計をしている友人と徹夜で討論するなどということをやるのは、ダムの専門書をまとめるならいざ知らず、たかだかダムの絵本を作るには、少々過度で、異常の行為であっただろう。だが、私にとって、それはたかが絵本であったからこそそれだけの調査や資料がどうしても必要となったのである。
(つづく・引用おわり)

2023/07/08

2冊のダム絵本

加古はダムをテーマにした絵本を2冊かいています。1冊はデビュー作『だむのおじさんたち』(1959年福音館書店)で、電力供給のために水力発電が盛んに行われた昭和時代半ば、日本のダム建設をするおじさんたちが主人公です。

もう1冊は国際協力でインドネシアに作られたチラタダムの建設現場に取材に出向いて執筆した『ダムをつくったお父さんたち』(1988年偕成社)です。この本が出版された時、すでにデビュー作は絶版状態でした。それで、かこは『だむのおじさんたち』を彷彿とさせる場面をあえて織り込んでいます。

第1作『だむのおじさんたち』の表紙にはおじさんが男の子を肩車し、その上に動物、裏面にはサインかわりの◯に「さ」がついている黄色いヘルメットを女の子がかぶろうとしています。

このモチーフが第2作の『だむをつくったお父さんたち』の最終場面、ダムを見晴らす構図で再現されています。お父さんがダムを指差しているところも同じです。

いずれの絵でも、父さんの日焼けした手の色が子どもたちの足の肌より濃いところが工事の作業を物語っています。

ダムは川の上流につくられ、その測量の様子を動物たちが興味深げに見守る描写も共通しています。第一作(上)は日本ですので、ツキノワグマや野ウサギ、サルなどがいますが、インドネシア(下)ではテナガザル、トビトカゲ、アミメニシキエビ、サソリやオオトカゲなど、私たちには見慣れない動物が登場しています。

工事は70年前の日本でも30年前のインドネシアでも、24時間体制ですすめられます。山の動物たちが眠るあいだもおじさんたち、お父さんたちは働きます。その場面、眠っている動物にもお国柄が現れます。

『だむのおじさんたち』(上)では、月がでて、秋草がさく詩情溢れる第6場面でしたが、インドネシアでの方々は『ダムをつくったおとうさんたち』(下)のこの場面をどのように感じてくださるのでしょうか。

『だむのおじさんたち』が9場面、『ダムをつくったおとうさんたち』は23場面と倍以上もありますので、世界各地から飛行機でインドネシアに技術者が集まり、資材が船で運ばれてくる様子や工事の工程を検討する会議の模様、建設現場の写真や解説のための図を豊富に盛り込んでいます。

『だむのおじさんたち』ではかなわなかった現場での取材ができるとあって、インドネシアの山奥まで、喜んで出かけて行ったかこの熱意が伝わる画面が続く『ダムをつくったおとうさんたち』です。

デビュー作『だむのおじさんたち』はおかげ様で皆さまのリクエストにより2007年に復刊され、現在に至っています。ダムをテーマにした新旧2作品を見比べ読み比べてみてはいかがでしょうか。

越前市武生中央公園「まめちゃんえん」」のモデルとなり、市内を走るバスの車体にも描かれている『あさですよ よるですよ』(1986年福音館書店)は今から40年近く前の作品ですが、人気は衰えるどころかますます高まっています。

福音館書店の「えほんのいりぐち2歳児向けセレクション」8月号として7月に、この絵本が配本されます。

1986年8月号として最初に出版された当時の折り込みふろくにかこが寄せた文章の再録が、今年のこの号にもついていますので、ご紹介致します。

(引用はじめ)
中学1年の時読んだマザーグースの豆の歌が、強く印象に残っています。その中に「ピース・ポリッジ・ホット」と「ピース・プディング・ホット」というよく似たのがあって、竹友藻風さんのを転訳(?)して喜んでいました。

〽︎あついえんどう豆ポリッジよ
 さめたえんどう豆ポリッジよ
 なべのえんどう豆ポリッジよ
 ここのかすぎたポリッジよ
          
 Pの字 ぬいて かけるなら
 おまはん 学者になれるだろ

最後の二行が私の英語力では、未だに謎で、こんなことを想い出しながらつくりました。
       *

豆には多くの種類があり、英語のピースとビーンズも区別されていますが、この豆ちゃん一家はどちらなのでしょうか。銀行名に使ったビーンズには、俗語でコゼニということ、したがってまめちゃん世界の一六銀行と思ってくだされば結構です。

では皆さん まめで またこんど。
(引用おわり)

2023/06/25

紫式部

最近咲き始めたこの小さな薄ピンク色の花は、やがて秋にはあざやかな紫色の実となり、たくさん連なります。この植物の名は「紫式部」。命名者の感性に感服します。

かこさとしのふるさと越前市にある絵本館の前の遊歩道を武生中央公園公園を背にして進むと紫式部の像がある式部公園に着きます。(当サイト絵本館情報に遊歩道のご案内を掲載しています)

その昔、紫式部の父が越前の国司となりこの地に赴任してきたのに伴い、式部は一年ほど越前で暮らしました。式部が京都以外で暮らしたのは越前以外にはないそうです。

それでは、紫式部についてかかれている作品を探してみましょう。

歴史上の人物ですので、『いまはむかしれきしのあそび』(1993年農文協)の前扉には、少女漫画の主人公 のようなタッチで描かれた式部がいます。
また本文には、「平安のすぐれたおんなのひとたち」として、清少納言、和泉式部たちとともに有名な和歌と合わせて紹介されています。

そして、京都で行われる時代祭にも登場します。その様子は『こどもの行事しぜんと生活10がつのまき』2012年小峰書店・下)でご覧ください。

もう1冊、紫式部の名がでてくる本は科学絵本『宇宙』(1978年福音館書店)です。いったいどうして?とおもわれることでしょう。

月や他の天体には、地球から観測していろいろな地形がわかってきていますが、地球の私たちがそれぞれの場所に地名をつけています。

月の表面には、ハーシェル、バスコダガマ、裏面にはアインシュタイン、ノーベルなど。また、火星(上)にも天体望遠鏡を開発したハーシェルの名や、ガリレオ、ダ・ヴィンチ、ニュートン、コペルニクスなどがあります。

そして水星(下)には、ベートーベン、ミケランジェロ、ルーベンス、シェークスピアなどとともに広重、人麻呂、世阿弥、芭蕉、そして紫式部もあるのです!

はるか平安時代の人の名前が水星にあるとは、意外であり、ロマンを感じます。

6月も半ばをすぎました。

【からすのパンやさんサイト】で時々登場する『お話こんにちは』シリーズの6月の巻のあとがきをご紹介します。

(引用はじめ)
6月の巻の話はいかがでしたか。

6月は、日本では、梅雨と言って、北海道をのぞいた地方では、とても雨の多い季節となっています。この時期には、しとしと、雨がふりつづいて、湿度が高くなり、その上、ちょうどよい温度があるので、カビがはえたり、食べ物をくさらせる、バイキンがふえたりするいやな季節です。

しかし、いっぽう、この雨が木ぎをそだて、田畑の作物を成長させるのに役立つのです。

みなさんは、雨の日、外で遊んだり、スポーツをしたりすることはできませんが、べんきょうばかりでなく、お話の本などもたくさん読んで、おおいに、のびていく力をたくわてください。

加古里子
(引用おわり)
本文は縦書きで漢字にはふりがながあります。

【からすのパンやさんサイト】66おさかなパンで、少しご紹介した『すしさしみ貝かに塩やき』(農文協)は、かこのお魚に対する熱い思いが伝わる内容です。

冒頭で「お魚は三しいです」として「あたらしい、おいしい、うつくしい」とかいています。
魚のおろしかたや、2見開きにわたってすしを取り上げ「おすしはおいしい水族美術館」という見出しのように美しく描かれたすしの数々に思わず食べたくなってしまいます。

そのあとがき「タイ・えびすそして海の彼方」をどうぞお読みください。

「タイ・えびすそして海の彼方」

(引用はじめ)
この巻の最後に、タイと名のつく魚たちがたくさん出てきましたが、「あやかりタイ」がこんなにもあるというのは、ことのほか、日本人がタイ好きであるだけでなく、親しみ、あこがれ慕っていることを物語っています。

タイというと、七福神の恵比寿様を思い浮かべますが、エビスという言葉には、野蛮で遅れた者と見知らぬ異人という意味があって、はじめは漁師や海人を卑下したり海岸に住む異人・外人を呼称していたのでしょう。ところが、このなかですぐれたた人や集団ができて、それらのもたらす素晴らしい海の獲物や、技術が注目を浴び、尊敬をもたれ、「様」という尊称をつけてよばれながら、幾世代を経るうちに、その力をたたえる伝承やあやかりたいという祈りが、さまざまな信仰や民族行事をうみだし、ついに渡来人エビスは、海産物と幸福を海の彼方からもたらす神となったのだといわれています。

川の流れの果てや、水平線の彼方に、希望をもち、未来を託していたように、楽しい食事によってすばらしい生活をきりひらかれるよう祈ります。ごきげんよろしゅう。
(引用おわり)

かこ作品のお話の展開には、静かな日常から始まり事件や出来事がおこって、大騒ぎのてんやわんやがようやく落ち着いて、また元の静けさが戻っておしまい、というものが多くみられます。

『おたまじゃくしの101ちゃん』や『とんぼのうんどうかい』(上・下)『さざんちゃんのおともだち』(いずれも1973年偕成社)などがその典型的なものです。

「だるまちゃん」シリーズもそういった筋が多く、小さいお子さんたちが、毎日、新しいことにであい、ちょっとびっくりしたりドキドキしながら少しづつ成長してゆくのと同様で、お子さんたちはこういったお話の結末に安心感を覚えることとなります。

最初から賑やかで、途中アクマの悪巧みで元気をなくした人々が最後にはまた、前以上に元気で明るく歌い踊る場面でおわるのが『わっしょい わっしょい ぶんぶんぶん』。

最初より発展して、大きな成果が得られる結末となるのは、『にんじんばたけのパピプペポー』(いずれも1973年偕成社)やその続きのおはなし『パペプペポーおんがくかい』(2013年)です。

その逆にどんでん返しで終わるのが『どろぼうがっこう』(1973年偕成社)です。お気づきのように多くは50年前に出版されたロングセラー絵本です。

こういった筋を追うだけでなく、お子さんたちは主人公のそばに登場する小さな動物たちの様子や表情もしっかり見て絵を読んでいます。それで時々前のページの戻って確かめたいと思うことがあります。

それがどの本のどの場面なのかは、まちまちでしょう。例えば『ことばのべんきょうくまちゃんのかいもの』の最後の場面、こんなにたくさん買った?!と思いながら、ページを逆戻りして、確かに、と納得する方があるかもしれません。

『だるまちゃんとてんじんちゃん』で、てんじんちゃんたちの庭さきにいるウソドリのつがいはいつからでてくるのか、てんじんちゃんのお母さんが花入にさしている山ゆりや、だるまちゃんが持って帰ったホタルブクロはどこで取ったのかをたしかめてみたり。。。

『はれのひのおはなし』(小峰書店)をはじめ、くもり、あめ、ゆき、かぜの日にまつわる5つのお話は、大きな出来事というよりこどもたちが体験するような、遊んで面白かった一日を再現していますが、『あめのひのおはなし』の最後はこんな場面で終わります。

右奥には4本の傘が放置されています。黒い傘はつぼめられて枝にかかっていますが、茶色や黄色の傘は、藪や池のほとりに放りだされたまま、小川のわきには、緑色のかさもあります。

いったい誰が使っていた傘なのか?というわけで前のページを見て確認。小さいお子さんであっても、この色だけで、誰が使っていた傘なのかすぐに思い出せるのかもしれませんが、前のページに戻ってみと。。。

「かえるちゃんたちは、じぶんの うちへ かえって ゆきました。」

なるほど納得ですね。
傘の置いてある場所がそれぞれのお家の近くで、性格まで垣間見えてにっこりしてしまいます。

みなさんにとって、前のページに戻ってみたくなる場面は、どんなところでしょうか。行きつ戻りつ、どうぞ心ゆくまで絵本をお楽しみください。

『わっしょいわっしょいぶんぶんぶん』の最後の場面は、越前市武生中央公園の温水プールがある建物内の1階ホール壁面に大きな絵となって飾ってあります。お近くに行かれましたら是非ご覧ください

2023/05/27

百人一首の日

5月27日は百人一首の日だそうです。
わたしたちになじみのある小倉百人一首が藤原定家よって完成されたのが、1235年のこの日だそうですから、今から一千年近く前のことになります。

筆者は中学校の冬休みの宿題で百首を覚え、年明けの学年かるた大会にそなえました。小学生の頃に家でぼうずめくりなどして遊んでいましたので、馴染みがあり家族を巻き込んで、上の句を言ってもらい、あとに下の句を続けたりして暗唱していました。

かこが高校一年生の時の国語の先生が俳人の中村草田男氏で「源氏物語」をならったそうです。草田男先生が 女房ことばなどを口にされ、楽しかったと後年大変懐かしそうに話しておりました。

『かこさとしあそびの大星雲8 いまはむかし れきしのあそびー東西の偉人、古今の事件ー』(1993年農文協)には、「平安のすぐれたおんなのひとたち」と題し、紫式部、清少納言、和泉式部、藤原道綱母など六人の女性が古今和歌集をつくった紀貫之とともに紹介され、代表的な和歌もかかれています。

和泉式部の娘、小式部内侍(こしきぶのないし)の「〽︎おおえやま いくのの みちの とおければ まだ ふみもみず あまの はしだて」のうたが口に出していると調子が良く好きだったことを思いだします。

紫式部は国司の仕事でやってきた父と共に、かこの生まれ故郷、現在の福井県越前市で一年ほど暮らしたことがあったそうです。「〽︎ めぐりあいて みしや それともわかぬまに くもがくれにし よわのつきかな」

千年も前の人々の心持ちが今に伝わる百人一首です。