絵本館11周年イベント動画ニュース『たっくんひろちゃんのちょうちょうとっきゅう』劇
2024年4月末に越前市ふるさと絵本館11周年を祝うイベントが開催されました。新幹線福井延伸を記念し展示テーマとも関係する『たっくんひろちゃんのちょうちょうとっきゅう』の劇を園児さんたちが上演しました。
2024年4月末に越前市ふるさと絵本館11周年を祝うイベントが開催されました。新幹線福井延伸を記念し展示テーマとも関係する『たっくんひろちゃんのちょうちょうとっきゅう』の劇を園児さんたちが上演しました。
偕成社より2023年秋から2024年春にかけて全10巻が出版された『かこさとし童話集』。その扉に使われたフードペーパーという廃棄する野菜を漉き込んだ和紙を制作した越前市の五十嵐製紙さんに御礼にうかがいました。その時の様子が、こしの都ネットワーク(ケーブルテレビ)で放映されました。
絵本の題字は、デザイナーさんや装丁の方がその字体や色をデザインすることが多いようですが、加古は題字を自らかいたりデザインをしたりしていました。
小峰書店から出版されているお天気の本5冊(1997〜98年)は、その良い例です。
タイトルの文字に雨、かぜ、曇りをイメージして線が入っています。
下右側『はれのひのおはなし』は題名の文字が光っているように見えますが、これも線を入れてそのように見えるようにしているからです。左の『ゆきのひのおはなし』では雪がたくさん降っています。
下の2冊の題字は加古の書き文字で『あさですよ』は豆をイメージした◯が字にも表紙の下部にも描かれています。『あかですよ』の方は海の中のタコのお話なので、同じ◯でも泡のイメージです。
『まさかりどんがさあたいへん』(1984/1996年小峰書店)は、大木を切り倒してピアノを作るまでを描いていますが完成までには数多くの道具を使います。電動ではなく手で切り出したり彫ったり。そのイメージとこの手書き文字はピッタリです。
『とこちゃんはどこ』(1970年福音館書店)の題字も手がきのシンプルなものですが、黒でも茶色でもなく白抜きで一部のみ彩色されていて表紙全体とのバランスも良く、軽快なイメージで洒落ています。
様々なフォントがある現在にあって、こういった手がきの題字がかえって新鮮に思えるのは筆者だけでしょうか。
他の作品に見られる手書き文字については(2018年のご紹介ですが)以下をどうぞ。
昨年の今頃は『からすのパンやさん』に登場する84種類のパンにまつわるお話をパンやさんのお父さんの視点でご紹介していました。このサイトはおかげ様で大好評で今日に至るまで多くの皆様にご覧いただいております。
投票で1番の人気だった「かめパン」でご紹介できなかったのがこの『あおいしまの ゾウガメどん』(1989年偕成社)でした。最初の回のみ、いくつかのパンをまとめてのご紹介だったことと、ゾウガメという珍しい種類だったこともあり、掲載していませんでしたが、加古が実際に現地で観察した「かわいい動物たちをモデルにして、いつまでも美しく静かであるよう願って」つくった物語です。
青い島というのはインド洋に浮かぶセイシェル諸島で、ここでは「あとがき」にもあるように太古の昔、アフリカ大陸から離れて島になったため、希少な植物、生物を数多く見ることができます。その中でも有名なのが国章にもあしらわれているゾウガメです。
この島々の海と空の美しさは息をのむほどです。ほぼ赤道直下にあるため、一年中色鮮やかな美しい花が咲いていて野生のポインセチアも見かけました。下の絵で、ゾウガメの左に見えるオレンジ色の鳥はスズメ、真上にいるのは軍艦ドリ、右上にいる白い羽に青いくちばしはアジサシです。
1979年から81年にかけて小学校中級から中学生向けの副教材として、みずうみ書房から刊行された「できるまで・とどくまで」シリーズ(4回、全20冊)は、様々なものの社会の中での役割に焦点を当て、知識を深める目的で出版されました。「岩波映画の社会科絵本」とありますが、画は写真ではなく絵です。
加古が担当したのは現在、福井市自然史博物館分館(セーレンプラネット)で展示中の「通信衛星」、「写真フィルム」「鉄」「石油化学」の4冊です。
加古は工学部で応用化学を専攻し化学会社の研究所に勤務していましたので、「石油化学」についての専門的な知識をもとに描いた画は理解を大変助けるものとなっています。
その第1場面は以下のようなもので、かつて天然素材で作られていたものが石油から作られるものに変化していることを伝えています。
この本がかかれてから40年以上経た現在では,この便利な石油化学製品であるプラスチックが大きな問題となってきているのはご存知の通りです。
「写真フィルム」は見たこともない方々が多く、デジタル化が進む現在ではすっかり過去のものになってしまったようです。
かつて加古が川崎に住みセツルメント(ボランティア)活動をしていた戦後の時代は、鉄が戦災からの復興を支える役割を担っていて、子ども会で接した多くの子どもたちの父親は製鉄所や造船所で働いていました。しかしながら、川崎にあった製鉄所の高炉も昨年休止となり、ここでも時代の移り変わりを感じずにはいられません。
一方「通信衛星」は今や福井県のように県でも打ち上げるほどで、生活に欠かせないものになってきています。加古が関わった4冊の本からも、社会の変化によって使われるものが、したがってそれに関わる産業も大きく変化することを実感させられます。
下は『できるまで とどくまで 通信衛星』より。
およそ2ヶ月毎にかけかえている藤沢市内の図書館と本庁舎1階ロビーの絵が新しいものになりました。
本庁舎には季節の草花を手にした『だるまちゃんとてんじんちゃん』たち。
図書館には虫歯予防にちなんだ絵やこの季節らしいカラタチの花とてんとう虫の絵です。
『こどもの行事 しぜんと生活』の季節感あふれる表紙は大人の皆さまにも好評です。
かこさとしの故郷、福井県の福井新聞の一面に毎日掲載されるコラム「越山若水」は4月30日は図書館の日と紹介し、それに続く5月は「図書館振興の月」でかこさとしやその編集に関わった松居直さんのことを例に「物語から想像力を広げる時間を」と結んでいる。
展示については以下でどうぞ。
新幹線延伸で賑わう越前市ふるさと絵本館では新たなテーマ展示:【みんな大好き!「電車」や「列車」】が始まりました。
『たっくんひろちゃんのちょうちょうとっきゅう』や『しんかんせんでもどんかんせんでも』など、電車好きの皆様、必見。『出発進行!里山トロッコ列車』の資料もたっぷりです。かこさとしの可愛い絵が大好きな方も是非お越しください。
4月27日午前中は『たっくんひろちゃんのちょうちょうとっきゅう』を幼稚園児さんたちが上演、28日午前中には鈴木万里によるギャラリートーク、午後にも楽しいイベントが続きます。
5月12日まで「こどもの読書週間」です。
かこさとし『ほんはまっています のぞんでいます』をご紹介いただきました。
この本が最初に出版されたのは1985年、2017年に復刊復刊ドットコムから復刊されました。
あとがきにもあるように「学年がすすみ、年齢が大きくなるにしたがい、だんだん本を読まなくしまうのです。」
絵本を卒業したこどもさんたちが読める本、そんな思いもこめて刊行されたのが『かこさとし童話集全10巻』(2023ー24年偕成社)でもあります。
この絵本の題名の通りです。ぜひこの期間に絵本や本を手に取っていただけたらと思います。
北陸新幹線延伸で賑わう福井駅西口すぐハピリン5階にある福井市自然史博物館分館では福井の「宙(そら)じまん」と題した展示をします。県民衛星の模型やかこさとし著の幻の『できるまで とどくまで通信衛星』の本も展示していますので、お近くにお越しの際は是非ご覧ください。
この本は様々のものがどうやってつくられるのかを絵本で伝える副教材としてシリーズつくられたものです。基本的なことをわかりやすく丁寧に説明していて現在でもその役割を十分担える本格的な内容です。
2017年1月発行のPHP No.825号【心に残る父のこと母のこと】145回として掲載された加古の随筆「無学な母と不憫な父のこと」をお伝えします。
(引用はじめ)
私の母は、明治28 (1895)年生まれで、家の都合で小学校もろくに行けず、そのため、ひらかなだけの手紙しか書けなかった。しかし、芸事が好きで、琴・琵琶・謡曲、後年は習字の手習いに時を忘れ、幼い私が騒ぐとよく叱られた。そんな私が小学一年の時、ジフテリアにかかり、当時の事なので、普通の2階家で一人入院の折、母から生まれて、初めて子供向け雑誌とバナナを与えられ、「病気も悪くないな」と思ったことがあったが、以後学校の成績や父兄会の後には、必ず長いお説教を頂戴した。
一方父は、明治25 (1892)年生まれ、兄姉私の3人の子のため、北陸の化学会社に律儀に勤めていたが、工業学校しか出ていないのに住んでいた社宅の庭のポプラの大樹と、小川を隔てた土手の欅の間に、三十メートルのアンテナを張り、朝顔型ラッパを備えた仏壇のような真空管受信機で、ラジオ放送を聞くようにした。 三年前に東京愛宕山から東京放送局の放送が始まっていたが、北陸の地で聞いている家などほとんどなかった。また、父はコダック社の写真機と、拡大映写する現像機を備えるなど地味であったが、先端技術取得に意欲的だった。
そうした父は、長男の兄を医者にすれば、将来姉弟や年老いた場合の頼りになるとの計画で、庭に鉄棒を作って、体を鍛え、受験雑誌をとって励ましていた。年の離れた私には子煩悩であったが、何の干渉もせず、時折黙って買ってくる玩具などは、いつも筋違いばかりだった。
兄の医学校入学を機に、一家は東京に移住し、父は造兵廠の技術者として勤務しながら、苦心して自宅を建てたが、水道井戸水両用の配管増設、階段室改変、客室改変など、毎日曜日、独り補強改修工事を行うので、小学生の私はいつも助手として縁の下や天井裏に潜って手伝うのが常だった。私が後年化学会社の工場や研究所での「汚い、きつい、危険」の3Kの仕事を、何の支障もなく遂行できたのは、この頃の経験のおかげだったと思っている。
真面目一徹の父の晩年は、兄の病死、戦災による自宅焼失、転々と仮小屋生活、頼って疎開した郷里親族との不仲、敗戦、農地委員による不当な農地取り上げ、その裁判、造兵廠勤務前歴のため失職、咽頭癌発病、手術により発声喪失など、不遇の中で死去。ガン発病以後、私は毎週特効薬を冷凍瓶で病室に運び続けたが、不憫な父は私の来るのを、唯一の慰めとしていた。享年63。私の技術屋としての唯一の師であった。
(引用おわり)
尚、加古の両親については『未来のだるまちゃんへ』『だるまちゃんの思い出 遊びの四季』(いずれも文春文庫)や『過去六年間を顧みて』に(2018年偕成社)の本文やあとがきに詳しくあります。合わせてお読みください。
絵は全て『だるまちゃんの思い出 遊びの四季』より。