あとがきから

上の絵は『だんめんず』の最初のページの一部です。この絵本の折り込み付録にある加古の文章、「だんめんず」と「かがくの本」の後半、その2では科学の本についての加古の持論を展開します。加古の投げかけた疑問と指摘に対し、半世紀近く経た現在、私たちはどのように答えることができるでしょうか。

「だんめんず」と「かがくの本」 加古里子

疑問と批判

さて、この「だんめんず」に取り上げた内容は旧制高等学校理科甲類の連中でさえ敬遠してはばからなかったむずかしい課目の1つですし、その図学の中でも後期に初めて出てくる高度の章に関係しているものです。

したがってここで、どうして小さい子どもたちに、そんな難しい図学とか立体とかのことを教える必要があるのかという疑問を、皆さまがたはお持ちになるだろうと思います。私が育った戦中時代より世の中が大いに進んだとは言え、昔の高等学校の学課を学令以前の子どもが主な読者である「かがくのとも」に書くのは少しどうかしてやしないかという批判が起こるでしょう。小さな読者のためには、もっとそれにふさわしい題材を選ぶべきだし、教科書を見ればわかるように、子どもたちに与えるかがくの本もやはりその発達段階に応じて3才児は3才児なりに、小学1年は1年なりの題材であるべきだというご意見がきっとわき上がることだと思います。

このような疑問や意見に対し、私も大いに論じつくしいろいろとご教示をいただきたい希望をもっているのですが、ここではとりあえず次の2つの事柄を結論的に申し上げることといたします。

教科書とのちがい

まず第1の点は、小さな読者であれ、高校生向けであれ、「かがくの本」や「科学読物」は、理科の教科書とは違うものであると言うことです。

教科書は、どんなに相手の子どもがいやがろうが好きになれなかろうが、その将来にそなえ覚え、身に付け、蓄えておかなければならない事項を記載したものであり、それをもとにした応用能力の修練のため、体系的に整理集積された手引きですから、学習目的の完成のために学校や学級という場と教師と言う指導者によって補充され補完され結実されるよう配慮されている性格の書籍です。

一方「かがくの本」や「科学読物」は、ほかの読み物と同じようになんらの強制力の義務責任もおわぬまま、ただあるのは読者の好みによってえらばれ、よまれ、すてられていくものです。幼児向けのものを小学生が読んで悪いことはありませんし、中学生向けの本を小学生が熱中することが珍しいことではありません。教科書では体系的な順序が乱れたり、それへの配慮がない事は大きな欠点となりますが、「かがくの本」にあっては、考古学の方を先におもしろく読んでしまってから、あとで植物の本を読むこともあるのです。しかも原則としては親やおとなから解説してもらうことなく、子ども自身の力で読み、たのしみ、そこで完結されることを目標としている本形式の印刷物です。

以上のように教科書はそれ自体の目的と任務、特質を持っており、子どもたちの読み物とはねらいや効果、長所がはっきり違っている異質な書籍なのです。

実を言うと、私は現在の教科書をわりとよくよんでいて、大いに問題があると考えていますし、特に理科の教科書に対してはごく1部を除いて相当な批判をいただいているものです。しかし、だからといって教科書の代替を「かがくの本」ですることができませんし、そうすべきではないと思っています。既刊の私のいくつかの「かがくの本」を理科の授業に使っていただいた貴重なお手紙をたくさんいただいていますが、この事の功罪は私にあるのではなく、ひとえに熱心な現場の先生方の協力のたまものであると同時に、その根本はそうした補いを余儀なくさせている教科書制作の当事者と管理当局によって欠陥を矯正してもらわなくてはなりません。教科書はその責任と任務の中で良いものにかえてゆき、「かがくの本」はその範囲の中で1冊、1冊を完成して行かなければならないと考えます。

(辛口の文ですが『だんめんず』最後の場面は下のように甘口です)

題材は何が良いか

第2の結論は、「かがくの本」の対象となる題材は何がふさわしく、何がだめだという事はなくて、どんなにむずかしく複雑なものでも制限はないということです。幼い子供だからといって、いつも植物や昆虫だけを対象としていることはおかしいということです。子どもたちをとりまく世界はジェット機がとびかい、公害の煙がたなびき、政治や経済のあらしがテレビや父親の疲れを通じてもちこまれている生きた世界なのです。子どもたちはその中で彼らなりのせいいっぱいの感覚を働かせ、知恵をたくわえ工夫をこらしているのです。そうした子供たちの要求にこたえ、その欲求の真に求めているものに対応していくのが「こどもの本」ということになりましょう。ですから対象を規定するものはただ2つ、子どもたちのいだいている要求をみぬく目と、それを作品として結実させ、子どもたちに満足をあたえ、子どもたちの要求を次の高いものへ転化せていく作者の力以外にありません。

もし子どもたちが望み、作者に力量さえあれば、電子顕微鏡や分子や原子、DNA、さてはベトナム戦争と言うことも消して幼児の対象からはずすべきではないと私は考えます。逆に以上の原則をはずして、子どもたちが喜んでいるという皮相面だけで、スーパーマンやゴジラまがいを相変わらず追う態度や、子どもたちの要求でなくほかの要求に従うならば、性教育における「ワレメちゃん」のように決してそれは、子どもたちの発展に資することもなく、子どもたちにも支持される事はないでしょう。
* * *

限られた紙面ですし、充分意をつくす時間のないのが残念ですが、ようやく最近、わが国で子ども向けのかがくの本が数多く出版されるようになってきたことを喜ぶと同時に、いま最も欠けているのは前記した2点の指摘からおわかりのように、まだまだ科学読物に対する評論の水準がきわめて低く遅れていると言う事実です。それを高めるのはすぐれた専門家を輩出させてゆく読者一般のかしこい知恵以外には無いのです。

『だんめんず』(福音館書店)が1973年に「かがくのとも」として刊行された時の折り込み付録には、「だんめんず」と「かがくの本」と題する加古里子の長い文章が掲載されていました。珍しく自分の事、成績のことにも触れてていることから、断面図など図面を書くことがよほど好きだったことがうかがい知れます。2回に分けてご紹介します。

「だんめんず」と「かがくの本」 加古里子

図学の試験

私は戦争中、旧制の高等学校の理科甲類に在学していました。理科甲類というのは、将来工学や理学を専攻する者のクラスで、理乙は医学や農学系のクラスでした。だから私たちのざれ歌に「理甲の頭をたたいてみれば、サイン、コサインの音がする」とか「理乙、理乙といばるな理乙、末はタケノコ、ヒトゴロシ」というのがあったわけです。

その理科甲類の生徒は、図学という学科をしなければなりませんでした。用器画とか幾何の学課をひろげたようなもので、将来機械とか建築の仕事に従事して、製図をしたり、図面をよみとったりするための必要な課目でしたが、何しろ定規できっちり線をひいたり、コンパスをいじったりして面倒なものですから「図学(ドロウ)はドロン」といって、いつの間にか教室を逃げ出したり、敬遠するのが普通でした。

ところがおかしなことに、わたしこのドロウが大好きで、最も得意な学科の1つでした。その理由としては、数学をはじめもろもろの学課がほとんど抽象的でありすぎる中で、最も明瞭具体的であったからかも知れませんし、絵画などの学課がない当時の高等学校の課目の中で、最も「芸術的なかおり」があったゆえかも知れません。

そんなわけで明日は図学の試験があるという前夜、寮の級友たちは徹夜でコンパスなどをふりまわしているなかを、私1人さっさとねてしまっていました。しかし、翌朝の私は、定規やコンパスのよごれをきれいにふきとり、手やゆびをよく洗って教室に入りました。そして答案をかく際も、下の机の小穴や木の目で、図面にいらざるよごれや濃淡がつかないよう配慮して仕上げることに注意を注いでいました。私の場合、大げさに言うなら、問題の正解に腐心している級友をしり目に、その段階よりも1段階上の、どうしたら見やすい美しい答案図に仕上がるかを考え、それを目標にしていたのでした。したがってほとんど図学の試験は満点に近い成績をとりつづけていたと覚えています。

ザンコク物語

この図学の時間の中で、私が1番興味を持ったのは「透視図法」と「切断」の章のところでした。透視図というのは線路が遠くになるにしたがってちいさくなって行き、電柱の高さがだんだん短くなって見える様子を幾何学的に図表化する方法ですから、まるで絵画と同じでしたし、若き日のダ・ビンチが研究していたというものですから、もう夢中になってしまいました。一方の切断ということは、ある立体とある面が交差したり、よこぎった場合、両方に属する部分の形や位置をえがく方法です。普通は立体と平面との場合ですが、実際にはらせん階段がまるいホールの壁につながる箇所など、立体と曲面の場合も案外あるものです。当時の私は金属コンンクリート製のものを、まるで大根かキュウリのほうに、スッパスッパきることのおもしろさつられて、ノートのはじに難攻不落の大要塞の断面図をえがいたり、肩から腹にかけてけさがけにきったなまなましい人体断面図を作ったりしていました。(少々若げのいたりでザンコク趣味があったのでしょう)

「かがくのとも」3月号「だんめんず」は、こうした私の高等学校以来の図学的考えや試みがつみ重なってでき上がったものです。学者や本によって截断面(せつだんめん)、截面、切面、切断面、截切面などいろいろの名称がつかわれていますが、ここでは一番普遍的な断面及び断面図という名称を使わせていただくことにいたしました。

「ふしぎな素材」をテーマに 加古里子

「かがくの本」とは?

ところでいったい、「かがくの本」というものは何なのでしょうか?それは、「たくさんある科学知識を切りきざんで、細切れにして売る本」でも、「最近の科学情報をこじんまりとまとめたミニコミ版」でもないはずです。まして、「複雑多岐に分かれた近代科学の諸分野を、わかりやすく絵ときした本」でもなければ「おとなも少々、答えに困る内容を、マンガなどをいれて読みやすくした読物」を「かがくの本」ということはできないでしょう。「かがくの本」というばあいの科学の要点として、
① 目的や目標をハッキリすること。
② 実施の方法や手順を、すじ道たてて計画すること。
③ 成果や失敗から得られる法則や教訓を整理し、体系化すること。
④ 客観的な事実の認識の上にたって、すべてにわたって合理的な考えを、判断の基準とすること。
があげられます。芸術や宗教、さては経営や政治などはこのうちの1つや2つを欠いても問題となりませんが、科学はこのうちの1つも欠かすことができません。

また、「本」というものの持つ性格は、次の事項にまとめられるでしょう。
① 現在おいては、印刷形式と製本形態をとり、現在の社会では一種の商品として売買されること。
② 単色ないし色彩による文字、記号、図形、写真、数式などによる伝達方式であること。
③ 表面的な売れ行き、人気などは、ただちにその内容の良否、価値を示すことにはならず、読者への効果影響はゆっくりとして波及顕在化すること。

こうした「科学」と「本」を単に加算しても、よい「かがくの本」の基準とすることができません。やがて、いろいろな方の研究がこの分野にも行なわれることでしょうが、私自身の判断の目やすとして、次のような項目を、よい「かがくの本」の基準と考えたいと思っています。

A. 内容が正しく、間違っていないこと。
(当たり前のようですが、よく考えると、なかなかこれはむずかしいことです。本を読む立場と、つくる立場の両方から正しいと言うことと、商品であることを全うさせるには、多くの複雑で困難な問題をふくんでいます)

B. 内容が発展的に書いてあること
(科学の発展が急激である現代、5年前のものではもう役にたたぬ場合が多く出てきています。時には古い考えや解釈は誤りであることさえあるのです。したがって、現在の時点のみに固定した表現や断定をしている本は、消して、よい本とはいえません。どうしても将来への発展方向を見さだめた上での、永続性のある表現が求められてきます)

C. 文・画・写真などが一体となって展開していること。
(本は視覚による伝達方式ですから、単に文字だけよりは図形を伴った方が、より的確な表現、より印象的な伝達が可能になります。しかしだからといって、このごろの漫画のように、当然文字表現によるべきところまで絵に置き換えたり、文字による方が、より読者の成長発展をもたらすはずであるのに、過度に図版を使用する事はさけなければなりません。もっとはっきり断定的にいうと、本という伝達媒体の主軸は、やはり文字であることを考えておくべきでしょう)

D. 興味性によってうらづけ貫かれていること。
(1冊の本を読み通し、その内容を理解し、何ものかをつかみ、さらにそれを発展させる力は、読者の側の働きにかかっています。そのような読者の力を発揮させるには、本にもられた面白さだけが力となります。なぜならどんなに素晴らしい内容や行動の理論も、読まなければそこで停止し、おしまいとなってしまうからです。本による影響効果の原動力となるものは、この興味性です。そしてこの興味性は、読者の水準により、いくらでも高くもなるし、また、いくらでも低俗に落ち込む性質を持っています)

E. できるだけ安く、しかも相応に高価であること。
(禅問答のような、この意味は、本というものがその内容がよければよいほど、多くの人々に読まれなければならないので、できるだけ安価にする努力が望まれます。しかし、内容と表現の隅々まで細心の注意と創造力が傾注されていなくては、良い本はできません。そうしたい本は、それだけの労働の産物ですから、それに見合う価値が正当に求められてしかるべきでしょう。それは高価であってもおかしくなく、むしろ高価を主張しうるにふさわしい内容が求められます)

F. 今日、その本の存在意義があり、更に将来にわたって必要なものであること。
(本の必要性が今、求められるとともに、過去にあった本との対比、外国の類書との比較で、進歩と独創性が誇れるかどうかが求められます)

さて、こうした私自身のA~Fの目安によって、「ごむのじっけん」はいったい「かがくの本」として合格でしょうか、どうでしょうか? 気の小さい私の心が今、ゴムのように、のびたり、ちぢんだりしているところです。

この本が出版された1971年当時には、どこの家庭にもたくさんあった輪ゴム。前扉の絵(下)にあるように女の子たちはこれをつなげてゴム跳び遊びに熱中しました。ゴムについてのこの本の折り込み付録に掲載された、かさとしの文「ふしぎな素材をテーマに」を2回に分けてご紹介します。

「ふしぎな素材」をテーマに 加古里子

のびたり、ちぢんだり

私たちの身のまわりには、いろいろの物質がとりまいています。石や木、水や空気、プラスチックや金属ーそうした個体や気体や液体の様々な物体の中で、ゴムという物質は非常に特殊な、特別な性質を持っています。

ゴムは、少し力をいれてひっぱると、もとの何倍にも伸び、力をとると、もどにもどります。この弾性と言う性質を、ほとんど、すべての個体は小さいながら持っているのですが、ゴムほど大きな弾性を示すものはありません。そのため、科学者たちは、この特異なゴムの性質を特に「ゴム弾性」とよんで、区別しています。

子どもたちはゴムのパチンコや、ゴムひもとびや、ゴムでっぽう、さては、「ゴム」と称するあやとりの種目からわかるように、ゴムを、のびたりちちんだりするものとして、しっかりその性質をつかんでいます。科学者が「ゴム弾性」として区別していることと全く一致しているのです。

この、子どもたちがはっきり知っている性質が、ゴムという物質の一番重要な本質と結びついているーーこういうすばらしい例を、「かがくのとも」の題材とするのにふさわしいのではないだろうかーーと考えたのが、このゴムを取り上げた第1の理由です。

いろいろな所に使われている

第2の理由は、私たちの身のまわりや世の中に、ゴムが意外に多く、いろいろな所に使われているということです。水道のパッキングや自動車などのクッション材として、ひっそりと目立たない形で重要な役割をはたしています。それは、ゴムが、第1番目の弾性という性質のほかに、第2番目以下の性質を、いろいろ持っているからで、そのため更に多くの用途に使われていることとなったのです。しかし反面、この第2番目以下の性質は、ゴムだけが持っている特性ではありません。プラスチックとか、合成繊維とか、金属なども、同じような性質を持っています。ですから、当然これらと競い合ったり、おきかえられたり、まぜて使われたりすることとなります。

ここで、ゴムという物質を、はっきり、よく知るためには、性質が似た他の物質と比較したり、選んだり、見きわめたりすることが必要となってきます。よく観察したり、考えたりすることが必要ということーーこれが、ゴムを、「かがくのとも」の題材として選ばせた第2の理由です。

今なお、未開のなぞを持つ

第3の理由は、ゴムは、初め天然にはえた野生の植物からつくられましたが、それが人工的に栽培されるようになり、やがて化学工業の製品として合成されるようになりました。その間、ゴムという物質の化学組織や構造の解明に多くのすぐれた科学者や技術者の研究が行われましたが、今なお、天然ゴムには、すぐれた特長と未開なぞが秘められています。

しかも、そのゴムのたどってきた道は、各国の政治や外交、戦争や経済のちなまぐさい歴史にいろどられています。たとえば、アマゾンの野生のゴムの種子を密輸し、マレー地方にゴム園を育てたイギリスの植民地政策、合成ゴムの成功を誇らかに党大会で発表したナチス、賞金つきでゴムの木以外のゴム植物を探し出したアメリカとソビエト、グッドイヤー・ダンロップ、デュポン等、ゴム工業にその名をひびかせている巨大な世界企業をぬきに、ゴムのことは考えられません。

すなわち、ゴムというものは、自然科学の題材として適当であるばかりでなく、同時に、社会科学の対象としても取りあげるにふさわしい性格を持っていると言うことです。

このように、考究に値する大きな題材に、興味と関心を持っていただく1つのきっかけとしたいーというのが、「かがくのとも」に取り上げた第3の理由です。

この科学絵本は1970年「かがくのとも1月号」(第10号)として刊行されました。その時の折り込み付録にあるかこさとしの文「あなおそろしきエレキテル」を2回に分けて掲載します。

「あなおそろしきエレキテル」加古里子

電気にとりかこまれて生活している幼児のためにーー

電気というものは、もうすでに私たちの生活から切り離すことのできないものの一つとなっています。
朝起きてからーーと言うより家庭によっては起きる前から自動スイッチや電気釜が動き出し、寝るまでーーこれもテレビやラジオつけ放して寝る人もいるようですがーー四六時中電気の恩恵をこうむり、その中ではじめて生活が営まれているといっても過言ではありません。子どもたちも、そういう中で毎日を送っているわけです。

この本の目標

こうした現代生活や社会のなかでのこの本の目標を、
(1)子どもたちが興味と関心を持ち恩恵をうけている重要な、「電気」というものを、子どもたちの日常生活の形の中で提示すること
(2)子どもたちの理解の範囲内で、最も重要で基本的な電気の原理で変則共通性といった点を浮かび上がらせる事の二点に集約しました。

ですからもし、これそれ以上のことをこの本からとられたとしたならば、それはこの本を読んでくださった子どもさんの能力がすばらしかったか、ご家庭の指導のたまものであって、決して作者の功で責でもないわけです。

電気に強い子どもを育てるにはーー

さて、子ども向きの本、特に幼児のための絵本で「電気」をとりあげるのは、いささか冒険といわれる方もあろうかと思います。私の知っている範囲でも、雷とか静電現象とか、せいぜい電池でのおもちゃがとりあげられているばかりです。

しかも悪いことに「電気」というものは、一般の人にはなかなか理解しにくい苦手な部類に属しているものであるということです。ことにいけないのは、電化家庭器具の第一の使用者であるお母さん方の大部分が時とすると、電気をダカツのごとくきらっておられるということです。人参や毛虫の嫌いなおかあさんの子は、それを忌みきらう率が極めて高いことと考え合わせますと、電気ギライはやはり子に影響があることでしょう。

電気がこのようにケイエンされるには理由があります。第1に目にみえないことです。電線はみえるが電気がきているんだかどうだかわかりません。その本体が具体的な形をとっていないということは、とても認識するのに妨げとなるものです。第2は、さわるとビリビリっときたり、パチっと火がとんだり、時によるとショック死するような恐怖感がつきまとうものであること。これには何せカヨワキおかあさんがたの最もいやな所です。第3に、こんなに好ましくなく、逃げだしたいのが山々なのに、使わずにいられないという所です。

電気の本質とは

以上の三つこそは、「電気」の性質をみごとに把握していることのあらわれだと思います。私にいわせると、こんなにも「電気」の性質をはあくしているおかあさんこそは、「電気」のよき教育者にもなれる筈だと思っています。そういう自信をおかさんがたがもってくださるなら、電気がすきで、よく理解したい子がどっさりふえることになるでしょう。そうしたらすばらしい指導者が身近におられるのですから、従来のような「現象的電気の本」ではなく、「本質的な電気の本」をつくってみたくなりました。その電気の本質とは何かといえば、この本では、ひそかにはりめぐらした三つの事項、
(1) 電気はつたわる
(2)電気と磁気とは兄弟
(3)電気は光、熱、音などに変わる
ということです。このことをくみとっていただければ、わたしの「電気学校」はもう卒業というわけです。

『でんとうがつくまで』が1970年に刊行された際、折り込み付録としてついていた、かこさとしの解説文「あなおそろしきエレキテル」の後半を掲載します。

「あなおそろしきエレキテル」加古里子

蛇足を少々ーー

電気は電気

あとはもう読者のみなさんがたにおまかせするばかりなのですが、二つ三つ蛇足をつけ加えますと、水力であっても火力であっても、発電された電気そのものに全く変わりありません。もちろん、他の風力その他でつくられた電気の場合も同じです。「水の電気は青く、火力の電気は赤っぽい」などということはありません。現在水力発電は、開発、 設備費の巨大になるため、あまり期待できず、大部分火力発電となっています。火力の主体は重油ですが、石炭もつかわれるため、この本では、石炭重油の両用できる形を示してあります。火力発電で、いったん蒸気となり、蒸気車(タービン)を回すのに使われた水は冷えるとまたボイラーにもどして何回も使うようになっています。水力発電でも、いったん水車をまわして流れた水を、夜間余った電力でポンプをまわし、再びダムにくみあげるなど、合理的な方法が工夫されています。やがては、原子力による発電が、増加するといわれています、また、電気をおこす機構がちがう太陽電池、MHD発電等の方法がありますが それらについては省略してあります。

変圧器の働き

発電機でおこされた電気は、効率よく送電するため、10万、20万、ときによると50万ボルト以上の高圧に変圧器でかえられ高い電塔にはられた送電線で消費地に送られます。送電線は、銅やアルミでつくられています、消費地近くまで高圧で送られた電気は、一次変電所、二次変電所等で、6千6百ボルト、3千3百ボルトにだんだん下げられ、大きな工場やビル等へ送られます。家庭にはさらに電柱や地下ケーブルの端に、小型の変圧器があり、2百または百ボルトに下げ、そこから家庭内の引込線となっています。家庭の入口にはメートルとよんでいる積算電力計、安全器、ブレーカーなどがあって、その端が電灯やコンセントとなっています。

説明図に工夫

それから、発電の説明図で、本当はコイルの位置が、教科書などにあるように磁石の上にある方が実験室としては効率的なのですが、そのようにすると実際の発電機と図の対比が混乱することと、電気の流れの方向が、磁石動きで逆むきとなることの二つの理由から、あえて変えておきました。説明図を単に説明に止めるのではなく、外形しかわからぬ実用機器機構的説明を、一連した形であらわしたいというねがいに発しているわけです。

さて、こうしてできたこの本が「あなおそろしやエレキテル」の本となるか、「あれおどろきてアキレテル」の本となるか、一にかかっている読者のみなさんのご批判をまつことといたします。

『あおいめ くろいめ ちゃいろのめ』(1972年偕成社)の四十年ぶりの続編として出版された本作は、前作同様、切り紙を使った画面構成が特徴です。これは前作のユニークな制作経緯と関係しています。

1950年代、かこさとしが川崎でセツルメント活動として、日曜日ごとに子どもたちに絵の指導や紙芝居などを通じて子どもさんたちと遊んでいたのですが、その中でハサミの使い方が上手にできないことに気づきました。そこで子どもたちに色紙を円形に切り抜かせ、それを使って顔の表情を作るという遊びをしました。子どもさんたちが切り取り、貼り付けてできた様々な表情の顔を、今度は加古が配置して、線で手や足を書き加え紙芝居に仕立てました。

子どもにしてみれば自分が丸く切り抜き、さらに小さな丸を切ったり貼ったりして目や口にして出来上がった自分の分身のようなものが、紙芝居に登場するのですから嬉しくて楽しいはずです。お友達が作った顔もわかっていて、誰ちゃんのものだとか、自分のが出てきたかとかそんな声とともに紙芝居に夢中になったようです。

それが元になって刊行された『あおいめ くろいめ ちゃいろのめ』にはもちろん、目の色が違ってもみんなお友達という願いも込められています。子どもたちの名前は紹介されていませんが、続編ではあおいめのめりーちゃん、くろいめのたろーちゃん、ちゃいろのめのばぶちゃんという設定になっています。

さて、続編では加古自身が最初からハサミを持ったわけですが、出来栄えについては「あとがき」にありますので、ご紹介いたしましょう。

あとがき かこさとし

(引用はじめ)
この巻は、前作品『あおいめ くろいめ ちゃいろのめ』の続編で前作の挿画は円形の切り紙を主軸にした「はり絵」でした。それは当時指導していた子ども会の子らが、元気で野性的だったのはよかったのですが、どうも手先が不器用で、七夕の飾りを作るときなどさんざんでした。それで色紙を大小の円形にハサミで切るよう指導して、器用さの練習とした訳です。
できた大小の丸い紙をすてるに忍びず、目や顔、いろいろな表情をつくり、紙芝居にして、子らの作品(?)がこんなに変身活用できることを示したという訳でした。

その続編なので、同様の丸い切り紙を軸にしたのですが、40年の歳月は、作者にいろいろの持病、特に視野欠損をもたらしました。当時の数倍の努力と時間を傾注したのですが、その頃の子ども達よりひどい歪んだ切紙で、慙愧の至り、お許しの程。
(引用おわり)
尚、本文は縦書きで漢字には全てひらがながふってあります。

使用した紙はミューズ紙、ラシャ紙などもありますが、7-8ページの本屋さんのウグイス色や21ページのまな板など、加古が越前市の和紙の里で選んだ越前和紙を使用しています。

前回ご紹介したのは血の話でしたが、いったい血はどこで作られるのでしょうか。その答えがこの本の中にあります。
子ども時代の外遊びの大切さの理由の一つは、からだ作りにありますが、本を読んで気づいて、体を動かして、いただけたらと思います。とはいえ、猛暑が続いていますのでどうか十分気をつけてお過ごし下さい。
あとがきをご紹介します。

(引用はじめ)
最近、子どもの骨折が多いということを聞きます。動作が機敏でなく、運動感覚が不十分なため、うろうろして事故にわざわざとびこむようだといいます。

そして、なにか骨格自体の組成が、変質してるいるみたいに弱く、もろき、折れやすいことが指摘されています。

こうした風潮をうけて、幼稚園などでは、できるだけ骨折などの事故起こさぬ安全策(?)をとっていることが、ひそやかにささやかれています。

そうした中で「骨太な、しっかりした子」、「硬骨漢」を取りもどしたいと思ってかきました。
(引用おわり)

かこさとし からだの本 4は血液についてです。もちろん人間の血液は赤色で、皮膚から透けて青く見えるのは異なる光の波長が皮膚に入り込んでいるからだそうです。生き物の中には青色の血液をしている動物がいて、 タコやイカなどの軟体動物や甲殻類、ダンゴムシやサソリも青い血なのだとか。

床屋さんの店先にある三色の看板の、赤は動脈、青は静脈、そして白は、かつて床屋が外科を兼ねていた頃、外科は赤白のシマシマで、理容は青で現したからとか。1700年代のフランスやイギリスにに遡る由来があるそうです。

さてこの本の題名にある「あか」は赤血球、「しろ」は白血球のことですが、さらにリンパ液は黄色として、小さいお子さんに理解できるような説明になっています。
あとがきをご紹介します。

あとがき

(引用はじめ)
私たちの体の仕組みのうち、血というものは、ふしぎですばらしいもののひとつです。私たちおとなは、子どもが、けがで血を流したりすると、おどろいたり、さわいだり、あわてたりします。けれどもおとなは、血のだいじなことを子どもよくわかるように話してやっていません。
この本は、血が、どんな役目をもっているのか、どんなだいじな仕事をもっているのかを知っていただくために、やさしくかいたものです。
(引用おわり)

1959年 福音館書より出版されたデビュー作『だむのおじさんたち』には長い解説のようなあとがきがありました。(当サイトで掲載) この本が2007年に復刊され、2018年現在に至っています。
復刊にあたり、帯にかこさとしの言葉が書かれていますので、あとがきではありませんが、ご紹介します。

(引用はじめ)
この絵本は、工場の研究所勤務の昭和30年代、休日は工員住宅の中の子ども舎の世話をしていた私が、福音館書店編集長の松居さんの依頼で初めて描いた作品。時代にふさわしいものと言う大きなテーマなので、停電が頻発する当時ゆえ、水力発電のダム建設を題材とした。半世紀を経て、絶版だった本書が再刊されるにあたり、種々の感慨とともに、この安定完成された水力発電の建設技術が再び政治とカネに乱されぬよう希求しているところである。
加古里子2007年11月
(引用おわり)

「かこさとし」ではなくデビュー当時の漢字表記「加古里子」が目に留まります。

2018年7月7日から川崎市市民ミュージアムで始まる展示会「かこさとしのひみつ展」では、この『だむのおじさんたち』の全9場面と表紙を展示します。全点を展示するのは今回がはじめてです。じっくりご堪能ください。