編集室より

あとがき

この作の源は、山国に伝わる鳥獣婚姻話の一つを1955年、当時流布していた「鶴女房話」にあきたらなかった私が、当時かかわっていた子ども会で話したのが始まりです。鶴は往時から上品高な鳥の代表で、裏切りで別れる女性と金に目がくらんだ男の題材は子供には不適で、庶民的な山鳥と前向きに生きようとする男女の姿の方が、子供たちにふさわしいと思ったからです。

それまでの絵画指導や紙芝居の私の活動と異なり、素話の形で終えた時、2人のおてんばから「山鳥さん返して」と泣かれたことと、後に東大教育学部教授となった仲間のエス君が「お話もやるんですネ」とめずらしくおセジをいってくれたことが、印象として残っています。

その後1978年、偕成社から語り絵本シリーズの1冊として出版、さらに1994年、上障害児福祉財団から音楽CD付紙芝居として、全国の施設に送られました。

野人門外漢である私が、今日まで子ども関係のお手伝いを続けられたのは、前述の子どもたちや同じ志の友人同僚、そして出版、福祉の専門家の方々の励ましやご援助の賜物なので、老骨米寿の期に、報恩感謝の微意をこめ、前述紙芝居を基底にこの絵本を製作致しました。印刷出版の実務に関しては関しては偕成社の御許しと御力を得て、全国公共図書館に贈らせていただき、全国の皆様への挨拶とする次第です。
(本文は縦書きです)

上記にあるようにこの本は全国の公立図書館への寄贈を目的として、かこの米寿記念に出版されたものです。図書館でお読みいただければ幸いです。この紙芝居のあらすじや解説は『かこさとしと紙芝居 創作の原点』(2021年童心社)や『かこさとし 子どもたちに伝えたかったこと』(2022年平凡社 )にありますが、現在Bunkamuraに開催中の「かこさとし展」で原画を展示中です。1枚だけですが、「ヤ助」とばれる理由がわかる迫力のある絵を是非ご鑑賞ください。

紙を使って楽しめる「ぺぱぷんたす」(小学館)は、この雑誌を切ったり工作して遊ぶことができるユニークなものです。付録の見本をお手本にさらに自分で最初から作ってみる楽しさは格別です。

かこさとしの『てづくり おもしろ おもちゃ』(2021年小学館)にある「スピード写真」と「紙の子犬」が特別に登場。あっという間に面白いてづくりおもちゃが出来上がります。不思議なスピード写真にきっとびっくり、可愛い子犬は素敵なペットになること間違いなしです。お楽しみください。

この本の表紙、裏表紙と前扉の下書きが現在渋谷Bunkamuraで開催中の「かこさとし展」で展示しています。下書きを見比べると、表紙の絵は下絵の絵から変化していることがわかります。どうぞご覧ください。

この本はもともとアメリカ向けの英語による出版でした。2021年、英語版日本語版を同時出版しています。お役に立てれば幸いです。

夏休み、いつもよりのんびり過ごせて夜空を見上げることができたらいいですね。
そんな時間はない、という方も是非『なつのほし』(1985年偕成社)をどうぞ。

2022年7月31日、NHKラジオ「絵本の時間」で取り上げられれました。放送は以下でお聴きください。

2022年7月31日 絵本の時間 なつのほし

その中で紹介された浴衣姿のかこさとしらしき人が夜空を見上げる場面の原画は、ただいま開催中のBunkamura「かこさとし展」でご覧いただけます。

2022/07/19

展示会で原画を見ていただける機会がありましたら紙にも注目していただくと面白いかもしれません。

かこは特別な画材を使うことはありませんでしたので、絵の具にしろ紙にしろ、身近な文房具屋さんに置いてあるようなものを使っていました。


ケント紙に描くことが多かったと思いますが、にじみを活かした絵に仕上げたい時は画仙紙を使いました。『おたまじゃくしの101ちゃん』(偕成社)の水中の場面などがその良い例です。

色のついたラシャ紙やミューズ紙と使い、その色を生かしている作品もあります。例えば『たろうがらす じろうがらす』(2021年復刊ドットコム)のねずみ色はどんより、雪雲が垂れ込めている空模様にぴったりです。『こどものカレンダー9月のまき』に掲載されているブリューゲル「子供の遊戯」の模写は、ブリューゲルの絵の背景色に近い濃いベージュ色の紙に描いています。

珍しく海外で作られた紙を使っているのが『ねんねしたおばあちゃん』(1980年 ポプラ社)の表紙絵です。おばあちゃんとおばあちゃんが世話をする子どもが描かれている非常に薄い紙ですが、その紙にはMade in France MBMの文字が透かしで入っています。

ここでご紹介した絵は、おたまじゃくしの101ちゃんの水中の絵を除いて、2022年夏のBunkamura展示会の公式図録『かこさとし 子どもたちに伝えたかったこと』(平凡社)に掲載していますのでご覧いただけたら幸いです。

かこが東京帝国大学に入学したのは1945(昭和20)年のことでした。その年の8月15日に終戦、疎開していた父親の郷里、三重県で玉音放送を聞き 9月から授業再開の報に一人東京に戻りました。

板橋にあった家は焦土と化し、大学の教授のツテで転々と居候をし、食べ物を探す日々。心身ともにさまようような学生生活が始まりました。そんな中、ふと目にした演劇研究会(劇研)の張り紙を見て引きつけられるようにして加わることになったのは翌年1946年のことだったそうです。

劇研で任されたのは舞台美術でしたが、かこは脚本にも興味があり公演に使われずとも書き溜めていました。「熟し柿と青い柿」と題するガリ版刷りの脚本(上)は、挿絵もかこによるもので1946年11月20日とあり、人間のように見える柿の木に赤と青の実がなっています。下の方には東京帝国大学演劇研究会の文字とペン、辞書、そして中央にはイチョウの葉と銀杏が描かれています。大学構内には火に強いといわれるイチョウの木が焼け残っていたようで、四季により樹の様子が変化する姿が学生たちの心の拠り所になっていたのかもしれません。

翌1947年、帝国大学改め東京大学となります。

持つと今にも崩れそうなほどに朽ちている一冊のノート(下)の表紙には、「演劇ノート
ー1947年に於ける文化運動日記ー中島哲」とペン書きされています。中島哲はかこの本名です。このノートに木下順二氏の似顔絵もあります。赤門近くに住われていた氏を劇研の面々が訪ね広角泡を飛ばし演劇談義にする中、かこはそれには加わらず後ろの方でスケッチをしていたと、笑いながら話しておりました。

そのノートの1947年4月19日のページには東大協同組合マーク案として番号が振られている1ー8案と番号なしのマークが1つ描かれています。2に「入選す」「構成的、意欲的をあらわす」とあります。このコメントは作画の意図をかこが記したものなのか、選ばれた理由としての評なのかは不明です。
またここにある8案を全て応募したのか、一人一案に限られていたのかは不明ですが、この8案全部を応募したのではないかと想像します。協という文字をデザイン化したものの他、イチョウの葉を添えた4つの案が目に止まります。

生協組合マークに続きかこは所属していた劇研のマークも考えています。 さまざまな案の中から決めたのはイチョウの葉と銀杏に劇の一文字。1947年12月13日の公演プログラム(下)にもこのマークがつけられています。

現在の東大生協のマークは東大のマークと同じものですが、1947年当時はかこデザインのマークが使われたようです。そして1947年には帝国大学から東京大学となったこともあり1948(昭和 23)年 6 月 8 日の評議会で新たなシンボルマーク、いわゆる銀杏バッジが制定されます。当時、東京大学第二工学部の星野昌一教授が作図したそうですが校章ではなかったようです。

ちなみに現在の黄色と淡青の2枚のイチョウ葉の組み合わせになったのは2004年。大学のイチョウは長きにわたり大学に集う人々のシンボル的存在であり今後もきっとそうであり続けるに違いありません。

校章だったり市町村のマークだったりシンボルとなるマークは多種多様です。ご自分専用のマークを持っていらっしゃる方もあるでしょうし、家紋や紋章もその一つと言えるかもしれません。ロゴマークもたくさん目にします。

かこ作品ではシリーズに共通マークをつけているものがあります。
かこさとしからだのほんシリーズ(童心社)ではご覧のようなものです。

『からすのパンやさん』や『どろぼうがっこう』でおなじみのおはなしのほんシリーズ(偕成社)のマークも笑顔です。


「だるまちゃん」シリーズ(福音館書店)のシンボルアイコンはもちろん、だるまちゃん。

かこはシンボルマークを作るのが得意というか好きでした。
川崎セツルメントのマークは緑の地色に白い星一つで、「自ら輝く星になれ」という意味を込めています。社会人になってまもなくの頃に通っていたプーク人形劇団の一つ星のマークのことは2020年6月18日に当サイト掲載の「こぼれ話」でご紹介した通りです。

シンボルマークといえば、2013年越前市に開館した、かこさとしふるさと絵本館のシンボルマークもかこのデザインに他なりません。絵本館の建物を型どった中に笑顔がたくさん並んで、そういう場所であって欲しいというかこの願いが伝わってきます。

絵本館の展示「衣」は7月11日までで、展示替えのため7月12日(火)から14(木)までは休館、「食」をテーマにした展示が7月15日(金)から始まります。

2022/06/20

小さな絵

かこさとしは背が高く大柄でしたが、体に似合わず小さな物も好きでした。子どもたちが小さいものを好むこともあって『ちいさな ちいさな ものがたり』(1984年偕成社)という作品も創作しています。細かい絵を描くこともいといませんでした。

「かこさとししゃかいのほん」(上・下)シリーズは当時全ページをフルカラー印刷することができず、カバーのみがカラー印刷された本も混じっていました。一つの四角は3、5センチほどですが、その中に小さな絵が描かれています。

小さい絵の多くは、あとがきに添えられることが多いのですが、『だるまちゃん・りんごんちゃん』のあとがきの後、最後の奥付には、たくさんの小さなりんごが並び、その中に小さなだるまちゃんも混じっています。

奥付の後の白い一枚に、絵を添えることもあります。見返し同様、何の絵もないのでは申し訳ないとかこは考えていました。デビュー作『だむのおじさんたち』の最後は上のような絵ですし、『とこちゃんはどこ』は下のようなモノクロの絵ですがいずれもサインが入り、ここにも著者の思いが込められています。

そんな思いを尊重して『てづくり おもしろ おもちゃ』(2021年小学館)にも小さな絵を添えました。

これぞ小さな絵といえば『地下鉄のできるまで』の最後のページ、奥付には1センチ四方に入るほどの小さなロードローラーがモノクロで描かれています。地下鉄工事の花形ではありませんが、地味でありながら工事現場の整地をして終わる、ロードローラーは物語の最後にぴったりですし、この空白に小さいながら絵を入れた著者の思いが伝わる、小さいけれど大切な役割をになう絵だと感じます。

どうか心にとめてご覧ください。

2022/06/13

じゃんけん

じゃんけんを知らない子どもはいない、と言っても言い過ぎではないくらい、じゃんけんは子ども時代の決め事には無くてはならないものです。そのじゃんけんの歴史、さまざまなじゃんけんに加え、じゃんけんを始める時にどんな言葉を使うのかを調べ、まとめられているのが『伝承遊び考』シリーズ最後の4巻『じゃんけん遊び考』(2008年小峰書店)です。

じゃんけんのはじめにかける掛け声自体も遊びの一部ととらえるかのように子どもたちは楽しみます。地域によって多種多様、その長さもまちまちで、こんなにも沢山あるのかと驚かざるをえません。時代の影響をうけ変遷していく様子も著されていますが、そこに収録されている多くは昭和そして一部は平成の時代の資料、実際に遊ばれていた記録に基づきます。

絵入りで紹介されている面白い例を一つだけご紹介しましょう。
「じゃんけん じゃのみち へびのみち どくじゃに かまれて ばったん きゅー」大変です!
他にも芋尽くし、下駄尽くし、アイスクリームやコンビニの名前が出てきたり時代を感じさせるものがいろいろあります。

さて令和の時代、どんなじゃんけんが子どもたちの間でされているかといえば、ふと耳にした「カレーライス」や「グリンピース」という掛け声で楽しそうにじゃんけんしている学校帰りの小学1ー2年生の姿に思わず、聞き耳をたててしまいました。

グーはグーから、チョキはチョーから、パーはパーから。子供達の大好きな「カレーライス」がじゃんけん開始の合言葉。筆者が幼い頃は、「じゃんけんぽん」といきなり始めましたが、その後テレビの影響で「最初はグー」。ずっとそのままだと思っていましたが、やはり進化していたことを知りに、なんだか嬉しくなってしまいました。皆さんの周囲では、じゃんけんのはじめの掛け声はどんな言葉ですか。

(1999年福音館書店)

そして今度、そんなお前の誤りだらけの過去と思い迷った来歴をまとめてみないかと言う申し出をいただきました。若い頃私が夢見ていた絵本の世界を、最初に現実のものにしてくださった出版社が、再び老人の思いを叶えてやろうというのです。あまりに過分な申し出に恐縮、ご辞退申し上げたのに、原稿を書かなくても、テープでおこして「聞き書き」の内容をワープロで打ち出すのでそれを点検すれば良いからと退路を絶たれ、遠路茅屋までこられて、どうぞ気楽に思いつくまま話してくださいと上手に誘い、聞き手が少なくてはと数人連れ立ってこられたりすること十数回、三年の長きに及んだ結果、順序系統だった「絵本塾講義録」になったと言うわけです。せっかくお読みくださる参考にと、資料現物を極力揃えるようしましたが、一部紛失忘却でお目にかけることができなかったのが唯一の心残りです。
(本文は縦書きです)
願わくば、私のごとき誤りを繰り返すことなく、そして眠れぬ夜を何度も迎えても達してなかった真実といる彼岸を、どうぞ読者の清新な力と広い心で取得し凌駕していただきた祈念し、感謝を込めてあとがきとします。

一九九九年三月

(1999年福音館書店)

こうした中、私がよく受ける事は、何故お前はこうした(変わった、或いは余計な)仕事(というか活動)をするのか?と言うと質問です。不徳の至り、第一の誤りから発し、次々誤りを重ね余計なことをするに至ったいきさつは前記のごとくですが、もし最初の過ちを犯さなかったとしても、当然何故自分は生きているのか、生きようとするのか、裏返せば何を生きがいとし、何のために死を甘受するのかを、一人前の自立した人間となる関門、成人の通過儀礼として、青年期には求めたことでしょう。他の方々はそんなそぶりはを外にも少しも漏らさず、それぞれ自ら決めた道を着々進んでおられるのに、もはや老人というより化石人に近いのに、今なお青臭い迷いや追求にあけくれているのは、我ながら進歩のない限りです。しかもそんな私に対し、有り難い事に多くの方々、特に子どもさん達から、日々お便りや励ましを頂きます。私の目標の一つ「人間幼少期の綜合把握」のために伝承遊びを蒐集する間、子ども達から多くの示唆と教訓を得てきましたが、さらに私の作品を読まれた子どもさんから、かわいい絵や覚えたての大きな字で、直接いただく感想やご意見は、作者冥利につきる以上に、月にに何度も落ち込むユウウツ期の私を救ってくれる天使となっています。たとえば「やさいのおんなのひとがつれているばったが、こいぬのようでおもしろい。かってみたい」とか「ぞうのおかあさんがしぬところで、いつもなみだがでます。とてもかなしくて、だからすきで、なんどもよんでもらいます」「うみのことは、まだよくわかっていないとかいてありますが、このほんはずいぶんまえにかいたので、いまではけんきゅうがすすんで、みんなわかるようになりましたか」という率直な、私の子心底にひびくお便りはくじけそうになる私を支え、力を与えて下さる糧となってきました。

(本文は縦書き、その4に続きます)