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編集室より
2018年8月9日当サイト「作品によせて」コーナーであとがきをご紹介した科学絵本『たいふう』(1967年福音館書店)は半世紀以上も前の古い作品であるにもかかわらず、展示を望む声が強くよせられました。それにお応えしていよいよ2019年6月27日(木)より、越前市ふるさと絵本館で展示を致します。
表紙(上)には、ちょっとクラシックな雰囲気の子どもと日本列島の地図に気象記号と台風の進路が記され、『かわ』に似た構成です。そして裏表紙(下)には、著者に似たメガネの気象予報士と思われる人が台風の進路の解説をしている様子が描かれています。この本が出版された1969年は、39もの台風が発生した記録が残る年でもありました。
本作品に描かれている暮らしぶりは昭和の時代を感じさせるものですが、台風に備え向かう姿勢は今と何ら変わりがありません。かつて、台風一過の秋晴れを安堵で眺めた清々しさを最近感じられなくなってしまったのは、台風が秋以外の季節にもやってくるようになり、また台風が通り過ぎても暑さが残ったりという気象の変化があるように感じられます。いずれにしても、台風の通り道に住む私たちにとって、特にお子さん達が台風のことを知り、自然の猛威について考える良い機会になれば幸いです。
現在展示中の『あおいめ くろいめ ちゃいろのめ』は6月23日で終了し、展示替えのため6月24日から26日までは休館となります。
(下は、前扉の絵です)
2019年7月22日午後2時〜3時30分 「かこさとしの創作の原点」岐阜市ハートフルスクエアーGにて
2019年6月26日、岐阜新聞に掲載されたように、上記日程で、かこさとしの長女が講演をします。
定員100名で、受講料300円。
申し込みは往復はがきで(7月10日必着)、岐阜市生涯学習センターに申し込みください。
電話058ー268ー1050
いつもの「だるまちゃん」シリーズとは大きさや形が違うこの本が誕生した経緯があとがきに書かれています。ご紹介しましょう。
(引用はじめ)
長野県飯田市では市をあげて、毎年国内外専門劇団、アマチュア劇団による人形劇フェスタ(元人形劇カーニバル)が開かれています。
それは、今田・黒田人形劇という人形芝居の伝統と市民皆さん方の、熱心な努力のたまものです。2000年夏、お手伝いにいった私は、とても感激して、会場の小さなお友達と「えほんをつくる」やくそくをしました。それから2年、ようやくできたのがこのえほんです、りんごんちゃんは、飯田のりんごのことです。6、10場面の山は、町の西北にある風越山です。10~13場面の舞台の紋様は、竹田人形座のしるしをおかりしました。そして、えほんの中の会話を、飯田のことばに近くしていただくため、飯田市立図書館の方々に指導してもらいました。ですから、このえほんには飯田の皆さんの力と思いがこもっています。アメリカのハリウッドは映画の街として有名ですが、やがて日本の飯田は、世界でも珍しい人形劇の街とよばれるようになるでしょう。そうなることを祈って、このえほんを人形劇を愛する世界中の人におくります。 加古里子(かこさとし)
(引用おわり)
加古が富士山を初めて目にしたのは、生まれ故郷福井県越前市から東京へ転居する車中、小学2年生の6月10日、1933(昭和8)年のことでした。「6月10日、時の記念日に東京に引っ越した」とよくその日付を口にしていたように、その日は忘れられないものだったようです。それもそのはず、この日に加古は絵を描くことに目ざめたのでした。
小学校卒業時の絵日記『過去六年間を顧みて』(2018年偕成社・上)には、上京する車中で父親から絵の手ほどきを受け、窓から見える「富士の雄姿を見ては自らどうかしてあのようなよいものを紙の上へうまくあらわそうと思った。」とあります。
中学校に入って山梨に野営に行った時、板に描いたのも富士山(上)でした。野営というと今風に言えばキャンプですが、自然と親しむのが目的ではなく、戦争の足音が近づいていたこの頃、運動会は張りぼての戦車の脇で訓練の様子を披露していた時代ですから、体力強化の鍛錬が目的だっとと思われます。生徒全員が絵の道具を持って行ったのか、残念ながら今となってはわかりません。
加古が絵本を描くようになってからは『こどものカレンダー4月のまき』(1975年偕成社)で葛飾北斎による富士山の浮世絵多数を模写で紹介しています。これらの絵と前述の板絵は6月15日から、ひろしま美術館で始まる展示会で初公開いたしますので、ぜひ間近でご覧下さい。
富士山といえば、もう一冊忘れてはならないのが『富士山大ばくはつ』(1999年小峰書店)で、この前扉にも歌川広重や北斎の浮世絵の模写が描かれています。富士山を科学的な視点で描きながらその美しさの秘密は火山であることを伝え、その自然の様子を植物、動物、気象など様々な角度から浮かび上がらせています。さらに、人々との関係も伝え、加古のいうように総合的にとらえている科学絵本です。その見方は冷たい客観性ではなく、多くの人々にこよなく愛される富士山の魅力を伝えたいという加古の気持ちがにじみ出ているものです。
『ならの大仏さま』(2006年復刊ドットコム)のあとがきもこれで最終回です。長くなりましたが、最後までお読みいただきありがとうございます。(上は、本書より東大寺南大門)
はっきり簡明に書く
(引用はじめ)
最後の第三の点は、「はっきり簡明に書こう」と努めたことです。そのきっかけは、偶然ある小学校を訪れた時、子供たちの「東大寺を作ったのは聖武天皇か、大工さんか」というクイズを耳にしたからです。前者といえば後者がいなければできるぬといい、後者といえば、歴史で習ったじゃないかと笑うイジ悪クイズですが、後でこれは有名な参考書にある「東大寺を建てたのは誰か(A)聖武天皇(B)百済からの帰化人」のモジリであることを知りました。
大仏の建立者が誰かを簡単に覚えさせようと、二者択一の方法で追い込めば、こうしたクイズまがいの知識となり、それが「学力」として横行することとなります。そうした単純化や簡易化ではなく、あいまいさや誤解を除き、確かなことをはっきりと明らかに記述したいと心掛けました。
従来どういうわけか子供向けの歴史の本や伝記は「はっきり」書くため、人物なり事件なりを善悪良否で画然と区分し、それを示す場合にも過剰な修飾や偏った独断が多かったように思います。大仏に関する本でも、英雄談と偉人伝が積み重なり、大仏が無事に残ったのはアメリカ軍の爆撃から古都をはずす進言をした某博士の尽力によるという「作られた美談」や「あやしげな奇談珍話」によって綴られていました。
そうした小話でなく、もっと私たちに関係する大事なことを、「はっきり」させたいと思いました。弱い一面を持った人間が強い意志と行動を示すに至ったことや、多くの功績に輝き、富や権力を持った人が滅んでいく様を「明らかに」のべ、私たちが今考えなければならぬことを学びたいと思いました。
しかし1000年以上にわたる長い経過と、主要記載人物が73人、画面(原画)登場3000人が入り乱れる様子を、繁雑で明快でないと思われる読者もおありのことでしょう。ほぼ最後の1年間を、原稿の圧縮と簡潔化に費やして描き及ばぬ私の非才を恥ずるところですが、p76〜77に示したごとく、実体はもっと複雑錯綜しており、その複雑な迷路の中に真実が存しているということです。
したがって前述のクイズのように、どうしても短い答えが必要なら「人間が造った、造ってきた」というのが、最もはっきりと、明快な、そして誤りのない返事となると言うことです。
(引用おわり)
上は、最終ページにある創建時、再建時、現在の大仏殿の大きさと修理を示す図。右下に描かれた小さな人により、その大きさがわかる。
お礼と報告
(引用はじめ)
以上の三項を旨としながら、5年間諸先達の著作・資料・ 論文を参考にさせていただき、関係の地を幾度か訪問彷徨したあげく、ようやくまとめることができたのがこの本です。
記述した内容は、私なりの検証を行ったものの、前記の諸先生方の学恩に負うところが多く、準拠した文献や出典出所を詳記すべきところですが、紙面の都合で略させていただきました。人物の風貌は、複数の資料より復元し、光明皇后(p11 )や広嗣(p14)のごとく全くないものは、口承口伝により再構成しました。
一方p77の大仏殿建築費は、単純な換算では経済生活基準の差が大きくひびいて実態とは合わぬ点を、昭和55年労働人件費を基準にして逐次算出し、その値が妥当か否かを復元建築図より各材料費・工賃を積算し、対比検証したもので、従来知られたものより実体に近い値でないかと考え提示いたしました。
狭い私の書斎と作業室を埋め尽くしていた資料の山を、ようやく整理できるようになった今、それらの筆者に感謝するとともに
青木和夫(お茶の水女子大学) 杉山二郎 (東京国立博物館)
故・前田泰次(東京芸術大学) 香取忠彦(東京国立博物館)
松山鉄夫(三重大学) 奥田英男(奈良国立文化財研究所)
馬場宏二(東京大学) 久保田穣(建設技術研究所)
上司永慶(東大寺) 山崎佳久(建設技術研究所)
堀池春峰(東大寺) 八木悠久夫(清水建設)
平岡昇(東大寺図書館) 吉田不二夫(鹿島建設)
新藤佐保里(東大寺図書館) 大沢弘(綜合設計社)
渓 逸郎(信楽法蔵寺)
の諸氏から専門的なご教示と、ご懇篤なお計らいを得たことを報告いたします。
本書は1985年の発刊以来、多くの読者特に小・中学生の方から、種々の質問や意見をいただきました。中でも教科書に載っている数字や建設法との違いについてのものが多かったのですが、訂正されないままの出版社の反省を求めたいところです。また大仏建立について、本書で述べた方法が、専門誌等で次第に認められてきている状況です。一方「大仏を爆撃から守ったアメリカの学者」という誤伝が、今なお横行していますが、その元となったのはねつ造新聞記事なので、そうした偽や誤に惑わされず、正しい事実による科学の知識を備えていただきたいと改めて念じます。
(引用おわり)
心や宗教の事
(引用はじめ)
私が望んだ第二は「心や宗教のこともふくめてのべよう」ということです。従来大仏建立のいきさつは、種々な記録や古文書、発掘された遺跡、遺物をもとに、極めて客観的に論理的に述べられていますが、そうした物的証拠がない人間の精神や、内面の心の問題は敬遠され、ふれられていないのが科学書の常でした。
しかし大仏は形や量が大きいからでなく、思惟思念の対象であった点が重要なのですから、なぜ建てられたのかを探るには、当然のことながら発意や企画、制作、推進、統率にあたった人の考えや精神がどうであったかを知らなければなりません。とくに仏教という新しい宗教と、信仰という心の問題をぬきに論ずることはできません。
もとより宗教の解説書ではありませんから、偏ったり、詳しすぎる記述をさけながらも、奈良の大仏がシャカの像ではなく、華厳経にのべられている法理を形象化した「法身仏」であることなど、必要な事項は最小限理解していただけるように努めました。
また人の心の中のことは、文字に託して表す場合、ともすれば正確に記されず、ましてや当時のごとく特定の記録者にたよる時、真実と表示の齟齬が、まま起こります。たとえば長屋王の変の策謀について「続日本紀」は何もふれていませんが、後年、密告者である宮処東人が死去した記述のところで、「誣告」すなわち、いつわりの告げ口だったことをもらし、事件の重要な真実を物語っています。
したがって文字や記録の内容を、単に字句や表面でとらえず、関係者の立場や状況に自らを置き、その心理を考察し、その表現表示に払うと同じ注意を周辺にも注ぐようにしました。こうした点で、たとえば謎とされている聖武天皇の東国への旅と相次ぐ遷都の背景を、行動日程表に身をなぞらえて辿っていくと、p23に述べるような人脈と勢力争いが浮き彫りとなり、たがいに功を競って大仏造営に励んだため、工事が着々進行したいきさつが判明してきました。
さらにもっと大きな問題は、従来ややもすると大仏建立の真意は、創建までの経緯の中にあるはずとして、この範囲で創始の考えが探索されてきたことです。それは妥当のようでいて合理性を欠くと考えます。大仏という精神的対象物への人びとの思いは、当然建てた後も引き継がれ、守り、けがされ、改変伝承されるもので、それを考慮しなければ不十分であり、逆に後年の姿や継承の考えから創始の初心を看取するに至る点があるからです。
BC 3世紀ごろ、エーゲ海ロードス島に建てられていたと伝えられる銅の巨人像や、p68〜69に記した京の大仏のごとく、崩壊後再建されなければ、いかに壮麗で、高邁な意図で造られたものであっても、歴史の挿話に止まりますが、現在まで継承されている時、再建以後の全過程に秘められた創建の考えを知ることができます。
このように、人間の心の対象である大仏建立の精神的な意味を探るため、p54以降の歴史を知っていただくことになったのです。
(引用おわり)
下はp76の図。左から天平創建時、鎌倉再建時、元禄再建時の大仏。
薫風の候、「あおによし ならのみやこは 咲く花の におうがごとく いまさかりなり」という万葉集の和歌が思い浮かびます。
奈良の都、平城京のことを想い詠ったものですが、奈良の大仏様についての絵本のあとがきをご紹介します。大型絵本『ならの大仏さま』(1985年福音書店・2006年復刊ドットコム)は、その題名から歴史ものと思われるかもしれません。確かに、奈良の東大寺にある大仏様のことを中心にすえていますが、その長い、しかも複雑な歴史を整理しつつ科学的な分析を加えている、かこさとし流の科学絵本です。
長文ですので3回に分けて掲載します。
広い科学的な立場
(引用はじめ)
この本を書いた動機を一言で述べるなら「どうして大仏を立てたのかを明らかにしたい」ということでした。そのため私は次の三つのことを心がけました。
その第一は「広い科学的な立場で記そう」としたことです。これまで、奈良の大仏に関しては、歴史・美術・宗教・建築・治金等、種々な専門分野の論文や研究が公刊され、それにより貴重なことがらを私たちは知ることができました。
しかし大仏のような複雑な状況と背景の中で作られた建造物には、諸分野の研究の単なる集合ではなく、外見や皮相の動きに迷わされず、隠れた本質を見抜く鋭い目と、偏らずに全容全貌に過不足なく及ぶ統合された科学的な視野が要求されます。特に対象が巨大な構築物ですから、土木建設の技術的視野を持たなければ、判断を誤る恐れがあるように思いました。
もとより私は、土木工学を専攻したものでもなく、また広い綜合力を備えたものではありませんが、大仏にとりくむからには、科学的視野に立つことを最低の義務とし、覚悟として、探索と記述に努めました。その結果、次の二点をご報告できるようになりました。
その一点は、これまでの本や教科書には多量の金が使われたように記載されていることです。仏体銅座の表面積、金アマルガム法の錬金技術や、当時の単位である天平小両の換算法等を綜合点検することで、p29に示した使用量が明らかとなり、そのために苦心した関係者のようすやいろいろな策略とその影響をp37〜41 に描くことができました。
もう一点は、大仏を鋳造する時、仏体より銅座を先に造ったか、後からという論争についてのことです。学者の間で長く論議が続けられている、いわゆる銅座先鋳・後鋳説の両論は、その論旨・文献・傍証・推理等に、これまでの学問的蓄積のすべてをつくして、甲乙つけがたい論争となっていました。しかし科学的記述のためには、両論の学者が触れていない、新しい、私なりの資料を示さなければなりません。
最適なのは、土木学会誌(昭56・1)に述べたように、大仏の基礎構造を明らかにすることですが、それには超音波等による非破壊試験や、コンピューターを使ったシュミレーションによる想定試行実験が必要です。
しかしそれは多くの困難を伴い、個人ではできぬ事でしたが、ふと建立70年後の事故の記録に気づきました。わざわざ非破壊テストやシュミレーションによらずとも、現実に破壊テストが行われ、ありがたいことに、変化が起こった箇所と数量、方角、種類、その後の状況についての記録がきっちり残されているのです。この記録と大仏の基本諸元によって、当時の基礎構造を逆算すれば、日本土木協会誌(昭57・6)に発表掲載した結果が得られ、それにもとづきp30〜31、p56〜57を記述したわけです。
以上のほか、各場面の記述について、自然科学と社会科学両面からの検討考察をくわえました。また、家屋・服装・調度品の色や形あるいは草木や幟・幡などの描写についてそれぞれ検討理由を記述すべきところですが、あまりに煩雑になるため、残念ながら割愛いたしました。
(引用おわり)
新しい元号となって2週間。
命名のもとになったのは、「万葉集」の「初春の令月にして 気淑く 風和ぎ」からとのことですが、かこさとし『こどもの行事 しぜんと生活 2がつのまき』には、他の巻と同様に2月の別名を上げています。
「如月・衣更着(きさらぎ)さむいので衣をきる月」に続き「令月・麗月(れいげつ) すべてうつくしくかがやく月」とあり、その次に「梅見月 はじめて花のさく月)と続きます。梅は「花の兄」とも呼ばれ、一番に花を咲かせるので、今のような暖房器具などなく寒さを耐えしのんだその昔、春を待ちわびる気持ちに明るい兆しとなっていたと想像できます。加古は「万葉集」をはじめ和歌や俳句に親しみ歳時記を手元に置いていたほどですから、この呼び名を掲載したのだと思われます。
大正15年に生まれた加古は、昭和、平成と生きました。存命中に、平成から次の元号に変わることが伝えられていましたので、その時を迎えられたら四つの時代を生きることになると、励ます意味もあって家族の中では話しておりました。それはかないませんでしたが、著作の中にこの新しい元号につながる言葉を載せていたことは、様々なテーマについて細かく調査して本作りをしていた加古だからこそと思わずにはいられません。「令和」を聞くことができたらきっとこの本のこのページのことを話題にしたはずです。
平成最後の今年のお正月、庭の梅の木にただ一つ白梅が咲きました。普通より一ヶ月も早く咲いたその一輪は、加古のかつての病床から見える場所にあり、その一輪に「暖かさ」以上のものを感じ寂しい新年の日々、その花を眺めておりました。今思えば「令」を予言するような一花だったようです。
その梅の木は、2月令月にいつものようにたくさんの花を咲かせ、この季節、日に日に青い実が大きくなってきています。『だるまちゃんとてんじんちゃん』(2003年 福音館書店)は、季節の草花を手にしたてんじんちゃんたちとだるまちゃんが、青い梅の実を運んだり洗ったりしてお手伝いをするお話です。てんじんちゃんのモデルは言うまでもなく、その知性品性を加古が尊敬し「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 、、、」と詠んだ菅原道眞、その人です。
表紙でだるまちゃんが手にしているのは、ホタルブクロ。これも加古の大好きな野の花の一つでした。その花が見られるのももうすぐです。
『未来のだるまちゃんへ』(2016年文藝春秋)の文庫版には、ハードカバー版のあとがきに加え文庫版あとがきがあります。ご紹介します。
(引用はじめ)
この度、既刊の書を文庫本として頂くに当り、特に繁忙の方や若い読者に、三つの事をお伝えしたいと思いました。
その第一は、2016年6月から、18歳以上に選挙権が与えられるようになりましたが、その時になって大人の準備では遅すぎるという事です。既に奈良時代より15〜16歳で元服の儀が行われ、また近代医学からも12〜15歳に至れば、男女共人間機能が充足すると解明されているように、子ども時代から同じ社会に生活し社会の動きを陰陽に体験している故、社会人としての下準備を着々進める努力をしておくべきだという事です。制度上の権利や責任を与えられて、それから社会人としての準備ではなく得た権利と責任を待ってましたと活用し、更なる努力により何らかの寄与を目ざさないのでは「猫に小判」の段ではなく、痛恨の極みです。要するに第一の事は、15歳元服時を一目標として、子ども時代から社会人としての準備をしておくという事です。
さて私たちの社会を構成し、維持しているのは、人間の集団です。その人間は、顔形だけでなく、その性格、能力などが多様で、表面的な見方や短時間の接触では、なかなか実体を知るに至りません。不明のまま共に働き、活動するより、実像を知った上で共同の仕事に当った方が、よい結果が得られるでしょう。社会人として生活するのに必要な人間の観察と実体把握のよい方法があるのです。
日本の教育制度では、小中高校の十数年間に接する級友は、概ね百人ほどになるでしょう。しかも朝礼、授業、テスト、運動会や文化祭、部活動、さまざまな機会や偶然の、裏の実像を知ることが出来ます。その級友の観察を通じて、多様複雑な人間の実像に迫る補習として活用しようというのが第二の提言です。(尤も後年同窓会で再会して、その豹変ぶりに一驚した経験もあるかも知れませんが)
第三の事は、この人間の社会がこれでよいのかという問題です。私が工場と研究所の会社員として勤務した二十五年間、知り得た会社の表裏と、言葉遊びではないが、その逆置の社会の清濁面を密かに観察してきました。その後、社会救援活動や福祉文化活動を通じて、また東南アジアや中近東諸国での識字教育運動により、夫々の地域社会の実情と問題を知ることが出来ました。夫々強度は異なるものの貧困、飢餓、差別、疎外、環境自然破壊など社会というに当たらぬ破綻、未完、劣悪の状態でした。最も憂うつにさせたのは、人類十万年、有史 数千年に及ぶのに、未だに適切確実な方策も組織も達成できず、紛争や、戦争が止む日はないという整備されぬ社会である事です。「社会性をもつ生物」という名称は、シロアリやミツバチの方が、ずっと完備されていると極論する学者もいるのは当然。ぜひこうした点を打開し、現在と未来に生きる人々の為、整備されたされた社会形成に力を注いで頂きたいのが、第三の私の願望です。
工学部出身の私が、どうして「子ども」などに関係するようになったのか顛末を述べるに当って、門外漢の私に専門の教育や育児、児童心理教導して頂いたり、出版や絵本実務を具体的に教示して下さった関係の方々の御配意を思い返している所です。とりわけ、川崎の子ども達が、:野生的で多くを語らず、行動で示す感性と意欲的な生きる姿勢に、私は多くの事を学びとる事が出来、昭和二十年以後の生きる望みを与えられたのでした。
前記三項目を添えて、文庫本のあとがきと致します。
2016年9月 かこさとし
(引用おわり)